マイナー武将 柏山明助
前回は、水谷正村について書きました。
今回は少し飛んで、奥州にいる武将、柏山伊勢守明助です。
この人は、奥州の代表的軍記である「奥羽永慶軍記」という書物の中に記述があります。
もともとは葛西家の家臣でしたが、秀吉の奥州仕置によって葛西家が大名家としてなくなると、南部家に仕えることになりました。
慶長五年(1600)、つまり関ヶ原の戦いがあった頃、伊達政宗の密命を受けた(のではないか、とされる)和賀忠親という武将による岩崎一揆が起きました。明助はこの一揆を鎮圧したことで南部家の重臣として名を上げることになります。
ちなみに、この一揆の失敗によって、政宗は家康から受けていたいわゆる「百万石のお墨付き」を反故にされてしまい、結果六十二万石で終わってしまいます。大河ドラマでは渡辺謙さんと津川雅彦さんとの腹の探り合いがあったシリアスなシーンでした。
で、この柏山明助についての武勇ですが、軍記に残っているほどのものはこのくらいしかありません。これは時代的にほぼ戦が無くなってしまっていることもあったでしょう。それゆえ、明助についての明確な足跡はあまりありません。
しかしながら、人物としては非常にすぐれていた人のようで、敵である政宗からしばしば引き抜きを受けていたらしく、しかし明助がそれを断ると今度は暗殺しようと忍びを入れたものの、今度はその忍びが人柄に惚れてしまって暗殺も失敗してしまう、という挿話があります。
とはいえ、奥羽永慶軍記にはこの程度の挿話しかないところをみると、恐らく奥州での史料がもともと少ないと考える方が妥当でしょう。
ちなみにこの人の最期は、南部利直によって毒殺される、という非常に気の毒なもので、その理由としては利直が明助の武勇を恐れたため、といわれています。
この南部利直という人物は毒殺に所縁のある人のようで、自らの三男である政直についても毒殺した、といわれている説があるほどです。
異説を書くと、この政直と明助は共に切支丹で、信直は切支丹の締め付けと弾圧という時流に逆らえず、泣く泣く二人を暗殺した、ともあります。
実際どうだったのかという事については先ほどの通り信頼できる史料が少ないので何とも言い様がありませんが、二人が毒殺された、というのは明らかです。