マリオン 11

いるのはすでに解明されていて、いわゆる一〇%神話、つまり『人間の脳は全体の一〇%ほどしか使われていない』というのは実は全くの誤解であり、都市伝説の類である事はすでに科学的に立証されている。一〇%というのは瞬時に使われている脳の活動領域が最大一〇%程度という意味であり、九〇%が「常に」眠っているわけではない。脳というのは基本的にはすべての領域において常に活動しているのである。では、なぜ一〇%しか瞬時に仕えないか、という問題にあたるが、これは酸素消費量とニューロン(脳の神経細胞)に相関する。人間の消費する酸素量の二割が脳の活動の為に使われていて、ニューロンの活動では二%程度になる。もし脳の活動領域を倍に、二〇%に増やそうとすると、脳への必要な酸素量は全体の四〇%にまで上がり、それに応じた酸素の取り込みも必要になる。単純に言えば、現在の標準的な人間の体格の倍にならなければならない。これが通常人の脳活動である。
 ところが、少尉の脳活動はそういった科学的常識を完全に覆すものになっており、例えて言うなら家事をすべて同時に一瞬で完了させるようなものである。無論、体が一つしないので物理的に不可能であるが、少尉の脳は、その物理的不可能を可能にするだけの能力を備えてしまっている、という事である。
 「私」たち三人は、この事象の意味を理解できるほどの知見を持ち合わせていない。恐らく、世界中の科学者がこのデータを見ることがあれば、十中八九は方法の不備、もしくは機械の故障という答を出すであろう。それほどのこの結果は現実離れをしている。
「だから、全くの謎なんだよ」
 という技師の言葉は、その苦渋に満ちたような表情から察するに苦しい本音と捉える事が出来るであろう。だが、目下の課題は、少尉への対応である。このまま退院させるべきかそれとも様子を見るかあるいは、徹底的な検査をして特異点要素を排除するか。
「この事は一旦私に預けてもらえないかしら」
 アイラ女医がそう提案をした。このデータを、ヤコブ博士と共に検証する、というのである。確かに、我々だけで判断を下すには余りに重い事例といえる。ならば、「私」も同席して、ヤコブ博士の判断を煽るべきだと思った。そして、すぐに行動に移した。
 相変わらず、ヤコブ博士の部屋に足の踏み場がない。そのくせ、床にある資料に触ろうものなら烈火のごとく怒り狂う為、何ともやりにくい相手である。事実、ヤコブ博士の元に通う研究者は少ない。だが、確かにヤコブ・グラハムという人物は、この国における第一等の医学博士であることに間違いはない。「私」とアイラ女医は床にある資料の、ごくわずかな隙間を、まるで川から出ている岩の踏み場をなぞるように入っていく。ヤコブ博士は研究室の一番奥の部屋に籠っているようであった。「私」がドアをノックすると、
「なんだ」
 と、明らかに不機嫌な声が返ってきた。
「私です、アイラです。すこし、お話したいことがあるのですが、今よろしいでしょうか」
「聞こえているから、そこで言ってくれ」
「実は、以前に手術をした、マリオン・K少尉についてなのですが」
 というアイラ女医の言葉を聞いた途端にドアが開いた。中肉中背で、しっかりとす意味を取るなどして手入れをすればそれなりに見られるはずであるのに、全くの無頓着なこの中年男性は、髭を延ばし放題にし、すぐに見て分かるほど髪に皮脂付着して何とも不快な

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