マリオン 15

 だとすれば、レビー小体型認知症の可能性も考えられる。レビー小体とは、アルファ・シヌクレインというタンパク質によって作られており、そのアルファ・シヌクレインは、大脳新皮質や海馬、視床の神経細胞内で作られる。視床は視覚を司り、海馬は記憶を司る器官である。そこでアルファ・シヌクレインが蓄積され、それが塊となってレビー小体となる。認知症の原因の一つがタンパク質であるといわれているのはこの為で、レビー小体型認知症の中核症状、つまり最も顕著に表れる症状の一つが、幻視である。そしてこのレビー小体型認知症は、アルツハイマー型や脳血管性とともに三大認知症の一つとされている。もしそうであれば、年齢からかなりの若年性の認知症、という事になる。
「体の震えはありますか。例えばつねに手が震えているとか、あるいは動作の始まりが遅くなって来た、とか」
 レビー小体はパーキンソン病の原因の一つとされていて、レビー小体型認知症を発症した場合、パーキンソン病を併発していることが多い。言いかえると、パーキンソン病の症状の有無で、また可能性は変わるのである。その判断の為の質問である。だが、診察中の彼女の姿は陰鬱な影を落としつつも凛としていて、手や体の震えは一切見られない。そして彼女の答えも同様であった。だが、これだけで断定するには困難である。いちど医療機関で検査をするべきではないか、軍属病院であれば、施設は整っている、と「私」は彼女に言った。だが、彼女はそれを拒んだ。彼女が悩んでいる幻聴や幻覚といった症状は、「私」が推測したそれとはどれも異なるのだ、という。異なる、という事は統合失調症や認知症ではない、という事になる。しかし当然ながら、彼女は医師ではない以上、それについての根拠を持ち合わせてはいないはずである。つまり、彼女の知見は素人のそれといってよい。素人の判断は非常に危険であることは洋の東西、時の古今を問わない。
「一度、軍属病院に戻って検査入院をしましょう。もし、私の考えている事が正しければ、はやく対処することで症状を緩和させることができます。まず、病院に連絡をします」
「それは要らないと言っているでしょう」
「何を言っているのですか。少尉の状態は危険である、と言わざるを得ない。だが、検査結果次第では、私の取り越し苦労の可能性もある。それを証明するためにも、検査を受けるべきだと思う」
「要らないのよ、そういうのは」
「少尉、我儘を言ってはいけませんよ。私は貴女の専属医なのですから」
 そう言い終えた刹那、少尉の口から出たのは意外な声だった。
「要らない、と言っているだろう、小僧」
 明らかに少尉の言葉ではなく、声も違っている。中年男性の野太い声に変わっている。そして、この声はどこか聞き覚えのある声であった。
 さらに、少尉の目は、いつもの鳶色ではなく、あの、光で散らしたターコイズブルーの瞳になっていた。「私」の脳幹があの時と同じように疼き始めた。
「な。……」
 何故、という言葉すら出てこないほど、疼きは酷くなっていく。声は、それに構わず、
「余計な事はするな。お前は、俺を見ていればいいだけだ」
 声はそれだけをいうと、すぐに消えた。同時に疼きも急速に消えていく。少尉の瞳も元の色に戻っていった。暫くの静寂が、場の主となった。

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