私を救った母ちゃんの一言
「そんなに嫌なら、離れればいいじゃない。別に一人でいても大丈夫なんでしょ?」
以下、ちょっと重い話が続くので、苦手な方は読むのを止めるか、気になる項目に飛んでくださいね。あと、めっちゃ長いです。
状況説明と当時の感覚
大学2年の初め、確かゴールデンウィーク明けぐらいだと思ったが、私の人間関係は拗れにこじれていた。
とある友人から「お前には人間性がない」と言われたり、「これ以上(友人として)関わっていたくないけど、みんなの目もあるから表面上の関係だけはしてほしい」とよくわからんことも最終的には言われたり。
……まぁ、そんなこんながあって。
一番ひどいときは、食事が味噌汁とか液体の物しか受け付けないし、夜は眠れなくて2時間眠れれば良くて、もちろん一睡もできないこともあったし、喉にヒステリー玉はできるし、体の中は「死にたい」で渦巻いてるし……
うつ病の手前ぐらいだったのかな、なんて思ったり。
一年ほど、この状況でした。
もちろん、だんだんと大学も休みがちになりました。
もう、その拗れた人間関係の人と一緒に教室にいることが怖くて怖くてたまらず、授業中も夜眠れなかった時の睡魔が襲ってくるので、気絶するように眠ってしまい、起きてたとしても全く頭に入ってこないーー
いっそ休学してしまおうか、とも考えました。でも、親に迷惑がかかるし、休学制度もよくわからないしで、堂々巡りの考え。
当時の状況はそれこそ「ずーーーーーーっと暗くよどんだ沼の中を歩いている」ような感覚で、行き場もない、正体もわからない、でも全部自分のせい、そんなネガティブな感情を纏っていました。
そして、ある日。私は何を思ったのか、実家の母に電話をかけたのでした。
母ちゃんの一言
やっぱり、母親って凄いなって。
私が電話越しに当たり障りない話をしている時でした。
母「ねぇ、なんか外歩いてるの?」
私「え、いや家だけど。なんならベッドの上」
母「そうなの? なんか凄く疲れてる声してるよ?」
何か、緊張の糸が切れる音がした気がします。母の「どうしたの?」が聞こえる前に、私は泣き出してしまいました。
そこで、今まであったことや、今自分がどういう状況なのかを、ぐちゃぐちゃに泣きながら思いつくままにぶちまけたのです。
母は驚きながらも真剣に聞いてくれました(隣には妹もいたらしいです)
母「ふーん…… そんなに嫌なら離れなさい。別に一人でいても大丈夫なんでしょ? それにその人たちだけじゃないでしょ、大学の友達。あと、バイトは無理しなくていいから。とりあえず、次の休みに帰ってきなさい?」
青天の霹靂というか、コペルニクス的転回というか。
当時の私は、その拗れきった人間関係に囚われすぎて、抜け出せずにいたのです。
悩めば悩むほどドツボにハマって、見渡す限り敵しかいない戦場にポツンと一人で満身創痍――そんな私をヒョイと摘まみ上げて、救い出した母。
あの時、母に電話していなかったら、私はきっと大学にも行けなくなり、バイトもクビになり、ご飯も食べれないので、病院送りになるか、運が悪ければ死んでいたでしょう。
そして私のとった行動。
私はその時に数人のグループで大学生活を送っていたのですが(拗れていたのはそのうちの一人)拗れていた相手以外に相談して、そのグループから離れました。
大学にいるのは最低限、授業の時間のみで直帰。バイトも週5日とか入っていたのを3、4日に減らし(生活は仕送りでなんとかやっていけた)
増えたのは「一人の時間」でした。
その増えた時間で、とにかく自分の回復を図ったのです。と、今書きながら思っています。
いろんな人の鬱病体験談や自己肯定感の取り戻し方、自分のいたわり方、マインドフルネス、心理学……
当時の自分は「自分の追い込み方」は知っていたけど「自分のいたわり方」はあまり知らなかったのです。
という訳で自分の体を休めていきました。
ひたすら寝るもよし、眠れないなら無理に眠らないもよし。食べたいものを食べて、お風呂にゆっくり浸かって、時々銭湯にいったり。ストレッチしたり、気が向けばランニングしてみたり。
次は自分の心をいたわることにしました。
映画をみたり、ラジオを聞いたり、動画を見たり。個人的にはテレビを見るのはカロリーがかかる(テロップを目で追えないし、情報が多すぎて疲れる)ので、Youtubeの方が見やすかったです。
そしてテレビ以上にカロリーを使うのが本、読書でした。昔はあんなに大好きで暇さえあれば本を読んでいたのですが、気が付けば、字を追えなくなっていました。文章を追おうにも、目が滑る滑る。でも、読みたいなって思った本を少しずつ、調子のよいときに読んでいきました。
そしてここで大事なのが、それをほめることなんです。
「今日は本を読めた」「天気が良かった」「洗濯した」「映画楽しかった」
ちっちゃい子を褒めるように、自分を褒めました。
ほめても、ほめられても嬉しいじゃないですか(笑)しかも、何もできないと思っていた自分に、できることがあると気が付かせてくれるんです。自己肯定感も少しずつ上がっていきました(何か本で読んだんですがソースを忘れました……汗)
体が少し元気になったあたりで、休んでほとんど行ってなかったサークルに顔を出した時「久しぶりー!」「待ってたよー!」と言われたときは、「あぁ、ちゃんと居場所がここにあったなぁ」なんて思って泣きそうでした。
他にも、学校の保健室に行ってみたり、学生相談でカウンセラーの先生に会ったり。保健室の先生とカウンセラーの先生との出会いは大きかったですね。友達とも親とも違う、でも信頼のできる大人――絶対的な安心感をその二人からはもらっていたのかもしれません。
とにかく自分を敵地(この場合はその拗れた人間関係)から遠ざけていったのです。
おかげで少しずつ、雀の涙ほど少しづつではありましたが、私は回復していきました。
とある日の決別
数か月、半年ほどでしょうか。私はその拗れた人間関係の相手に授業終わりに呼び出されました。人気のない校内のベンチに呼び出され、正直、回復してきてたとはいえ、とても怖かったです。
相手「大事な話がある」
私「そうだねー」
相手「何が「そうだね」だよ、あからさまに避けやがって」
まぁ、避けていたのは事実なので、反論する気にも謝る気にもなりませんでした。「そんなことしたら相手が可愛そうだ、相手の気持ちを考えろ!」とか言われそうですが、「じゃあ、あなたはあなたにナイフを向ける相手に抱き着けますか?」と反論したいですね。
心臓が口から飛び出そうなほどのプレッシャーでしたが、極めて平静を装いました。
相手「これ以上(友人として)関わっていたくないけど、みんなの目もあるから、これで、これまでの問題はいったん全部終わってほしい。でも挨拶とか表面上の関係だけはしてほしい」
……ちょっとこの時は絶句していたような気もします。そして、私の中に芽生えたのは久しく感じていなかった「怒り」でした。
私「……あなたがそうしたいならそうすれば?」
私はそれ以上、何も言いませんでした。
相手の話を聞きながら相槌も返事もしましたが、明確に私の意思は、この一言だけ伝えました。正直、この一言を言った後は、自分の中をいろんな感情が駆け巡っていったのであまり覚えていません。
その後も、相手には悪いですが、自分の身が第一なので、大学はサークルがあるとき以外は直帰だし、いるとしても一人でいます。
まとめ的な感想
案外、人間、一人でも独りじゃないことが分かった、貴重な体験だったと思っています。
そして、母のあの一言。
本当にあの一言がなければ、きっと私は死んでいたでしょう。私は本当に家族にたくさん助けられて生きているなぁと、つくづく思います。
失ったもののように見えるものより、もっと大切なものに気が付いたし、新しい世界には出会えたし、総じて結果オーライ。
まぁ、2年ほど経っても、まだ回復の途中ですけどね。
相手には相手の世界があって、私には私の世界がある。そりが合わなければ離れてもいいし、別にすり合わせる必要なんてない。人生、長いようであっという間なんだ、自分は自分の大切な人や仲間たちとやっていければそれでいい。
って思って今日も緩やかに生きています。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、またどこかでお会いしましょう。今日はこの辺で。