走馬灯(第11話)
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深夜の病院は、世界から見捨てられた場所のように静まり返っていた。
ときどき、思い出したかのように、廊下をペタペタと歩く看護婦の足音が聞こえる。
眼の前のベッドでは、先ほどの苦しみの表情が嘘のように母が穏やかな表情で寝ている。本当にあどけない顔をしている。だけど、母親になった女性特有の強さがその顔にはあった。その寝顔を見つめながら、私はずっと考えていた。どうしたら眼の前の母に、私の今の思いを伝えられるのだろうか。私の声は彼女には届かない。それなら、他にどんな手段があるというのか。
私は何か使えそうなものが無いかと周りを見回す。
タンスの上にメモ用紙と鉛筆が置かれているのが眼に入った。鉛筆を掴もうとゆっくりと手を伸ばす。だけど、鉛筆は私の手をすり抜けていってどうしても掴めなかった。
(だめか……)
ふと、制服の胸ポケットに小型ボールペンを刺していたことを思い出した。ポケットに手を伸ばしてそのポケットのボールペンを手に取る。
(これだったらつかめるのに……。このボールペンで何とかして文字を書けないのかな……)
ボールペンをタンスの上のメモ帳の上に滑らせる。ボールペンは氷の上をなぞっているかのように紙の上を滑るだけだった。だけど、そこには本当に薄っすらだったけど黒い線になっているように見えた。
(これだったら、文字が書けるかもしれない……)
今度は本当にゆっくりとボールペンを紙の上を滑らせる。5分ほどかけて「お」という文字を書き終えた。がたがたに震えるような文字だったし、本当に薄い文字だったけど読めないことはない。私は「お」に続くように文字をその紙に刻み込んでいった。2時間ほどかけて、メモ用紙には次の文字が並んだ。
『お母さん 私を産んでくれてありがとう』
私はその文字を確認する。そしてその脇のベッドで寝ている母の寝顔をじっと見つめる。
そのとき、ある疑問が頭に浮かんだ。それは当たり前の疑問だった。だけど当たり前すぎて、そのことを見過ごしていた。
(ここは、私が生まれる前の世界のはず……)
当然、私に記憶なんてあるわけがない。そうだとしたら、今の眼の前の母の姿はどういうことなんだろう。この世界は、私の記憶が作り出した単なる空想なのだろうか。私が見ているこの女性の姿は、私の単なる願望でしかないのか。そのような母親であって欲しいという、少なくとも一人くらいは私の存在を受け入れて欲しいという、そんな願望が投影されているだけでしかないのか。
「ねえ、お母さん……。本当のあなたは私の存在を喜んでくれたのかな?」
眼の前の母は、私のその質問に答えてくれることはなかった。