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短編小説『あんなことやこんなこと』
まえがき
日常の中にふと訪れる、小さな奇跡やささやかな秘密。それは誰にでもあるけれど、なかなか口にできないものかもしれません。この短編では、そんな"あんなことやこんなこと"を描いてみました。
あんなことやこんなこと
駅前のカフェでバリスタとして働く美咲は、朝のラッシュの中、いつも慌ただしく時間を過ごしていた。お客様にコーヒーを提供し、笑顔を交わし、ただそれだけのルーティンが日常だった。
ある朝、一人の男性客がやってきた。黒縁眼鏡にスーツ姿の彼は、どこか緊張した面持ちでメニューを眺めていた。
「何になさいますか?」
美咲が声をかけると、彼は少し慌てた様子で「アメリカーノをください」と答えた。注文を受け取り、美咲がコーヒーを淹れていると、ふと彼の仕草が気になった。指先をもじもじと動かし、スマホを触るわけでもなく、ただカウンターの木目をじっと見つめている。
「何か、心配ごとでもあるのかな?」
美咲は心の中でそう思いつつも、口には出さなかった。アメリカーノをカウンター越しに渡すと、彼は深々と頭を下げ、そそくさと席へ向かった。
翌日も、彼は現れた。同じように黒縁眼鏡にスーツ姿で、同じようにアメリカーノを注文した。その翌日も。またその翌日も。
「毎日、来てくださるんですね。」
思わず声をかけた美咲に、彼は照れくさそうに微笑んだ。
「ここで飲むコーヒーが、一日の始まりなんです。」
それから、美咲と彼の間には小さな会話が生まれた。名前は直人。職場はこのカフェから歩いて10分ほどのビルにあるIT企業で、エンジニアをしているらしい。日々の業務に追われて、コーヒーを飲むこの数分が、彼にとってのささやかな息抜きだという。
ある日、直人がカフェに現れなかった。いつも通りカウンターに立つ美咲は、少し物足りなさを感じていた。
「どうしたんだろう……」
そんな日が三日続き、四日目の朝、直人は顔色の悪いままカフェに姿を現した。
「大丈夫ですか?」
美咲の問いかけに、直人は申し訳なさそうに微笑みながら答えた。
「ちょっと体調を崩していて。でも、ここで飲むコーヒーが恋しくて。」
その言葉に、美咲は胸の奥が温かくなるのを感じた。何でもない日常が、彼にとっては特別な時間だったのだ。
「よかったら、今日は座って待っていてください。いつもより少しだけ、美味しく淹れますから。」
直人は、少し驚いたように目を見開き、ふわりと微笑んだ。
それから数週間後、美咲のエプロンポケットに、小さな手紙が入っていた。「いつもありがとう。君のコーヒーが、僕の一日を特別にしてくれる。」と、直人の署名があった。
美咲は、こっそりと微笑みながら、手紙をエプロンの奥にしまった。その日、いつもより一層丁寧にコーヒーを淹れる美咲がいた。
あとがき
人と人とのさりげない関わりが、心を動かす瞬間があります。この短編が、そんな誰かとの小さな奇跡を思い出すきっかけになれば幸いです。
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