短編小説:『しょうもないこと』
まえがき
日常の中で「しょうもない」と片付けてしまう瞬間は誰にでもあります。でも、その「しょうもない」の裏側に、実は大切な感情や、本当の自分の気持ちが隠れていることに気づくのは難しいものです。
短編小説『しょうもないこと』は、そんな言葉に逃げる主人公と、それを見つめる友人の視点から描かれた物語です。何気ない一言が、人生の大事な選択を曖昧にしてしまう。そんな「しょうもない」という言葉の裏に隠された葛藤や、思わぬ深みを感じていただければ幸いです。
一度「しょうもない」と思った出来事を振り返ると、あなたの中に何か新しい発見があるかもしれません。
1. 居酒屋の一角
「でさ、結局どうなったんだよ?」
木曜日の夜、居酒屋のカウンターに腰掛けた翔太は、グラスを傾けながら隣の友人・健太に尋ねた。健太は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、しばらく沈黙していたが、ようやく口を開いた。
「どうもこうもねぇよ。結局、何もしてねぇ。」
「お前さぁ、それで後悔しないの?」
「後悔なんかしねぇよ。だって、しょうもないことだし。」
翔太は眉をひそめた。この「しょうもない」という言葉は、健太がよく使う常套句だった。自分の失敗や何かを諦める理由として、彼はいつも「しょうもない」を口にする。それが言い訳にしか聞こえないことを翔太は知っていた。
2. 学生時代の記憶
二人が知り合ったのは高校時代。健太は運動も勉強もできる方ではなかったが、その飄々とした性格のおかげで、誰にでも好かれるタイプだった。一方で翔太は、努力家で何事にも真剣に取り組むタイプだった。
ある日、文化祭でバンドを組むことになり、健太がボーカルに抜擢された。健太の声は深みがあり、誰もが彼が歌えば観客を魅了するだろうと期待していた。しかし、本番直前になって、健太は突然こう言い出した。
「やっぱやめるわ。こんな、しょうもないことで緊張とかしたくねぇし。」
結局、バンドは急遽翔太が代役を務めることでなんとか形になったが、健太の言葉が頭から離れなかった。「しょうもない」という一言で片付けた彼の態度が、翔太にはどうにも理解できなかったのだ。
3. 今日の「しょうもない」
「で?何がしょうもなかったのさ?」
翔太はビールを飲み干しながら健太を睨むように言った。健太は軽く肩をすくめた。
「いや、職場の同僚とさ、なんかいい感じになりそうだったんだよ。でも、結局さ、付き合ったらめんどくせぇかなとか思って、何も言わなかった。」
「お前、バカか?」
翔太は思わず声を荒げた。
「お前さ、それ本当にしょうもないと思ってんの?付き合うのがめんどくさいって理由で、チャンス逃したってだけの話だろ?」
「まぁ、そうだな。」
健太は、さも「大したことじゃない」とでも言うように笑ってみせた。
4. 翔太の苛立ち
翔太は耐えきれなくなったように、テーブルを軽く叩いた。
「お前さ、いつもしょうもないって言葉で何かを片付けてるけど、それってお前の本音じゃないだろ?お前は本当は、自分が失敗するのが怖いだけなんじゃないのか?」
健太は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「いやいや、そんなカッコつけた話じゃねぇよ。ただ、俺にはそんなに大事なことじゃなかったってだけさ。」
その軽い口調に、翔太はため息をついた。
5. 帰り道の独り言
飲み会が終わり、二人は駅前で別れた。翔太は家路を歩きながら、健太の「しょうもない」という言葉を何度も反芻していた。
彼がそう言うたびに、本当にそれが「しょうもないこと」だったのか、それとも「しょうもないことにしてしまった」のか、翔太にはわからなかった。ただ、翔太には確信があった。健太は、きっと大事な何かを失っている。
「しょうもないことなんて、本当はこの世にないんじゃないか……」
翔太はそう呟きながら、夜の街を歩き続けた。
6. 健太の夜
一方、健太は一人、薄暗いアパートの部屋に戻っていた。机の上には未送信のメッセージが表示されたスマホが置いてある。
「今日は話せて嬉しかった。次は二人で飲みに行こう」
彼が同僚に送ろうとしたメッセージだった。
健太はその画面をしばらく見つめた後、「削除」のボタンを押した。そして、ふと笑みを浮かべた。
「……こんなの、しょうもないことだ。」
−完−