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短編小説『静かな時間』

まえがき

人生には誰しも、静寂の中で何かを見つめ直す時間が訪れるものです。それは心が満たされる瞬間でもあり、何かを失ったときの空虚さを埋める瞬間でもあります。短編小説『静かな時間』は、そんな日常の中の小さな奇跡を描いた物語です。


静かな時間

日曜日の朝、ひとは決まってそのカフェにやってくる。街外れにある古い石造りの建物で、ドアを開けるとカランと鈴が鳴り、コーヒーの香りが出迎える場所だ。いつもは賑やかなこの店も、朝の開店直後はまだ人影が少ない。

ひとは一番奥の窓際の席に座る。その席からは小さな庭が見える。紫陽花の花が咲き始めており、その淡い青紫色が静かな朝の光と相まって、ひとの心を和らげるのだった。

コーヒーカップに視線を落としながら、彼女は小さなメモ帳を取り出した。表紙は擦り切れており、彼女がこれまでにどれだけその中に何かを書き込んできたのかが伺える。今日もまた、何かを書こうとペンを走らせるが、言葉はなかなか出てこない。

「おはようございます、いつもありがとうございます。」

マスターの柔らかな声に、ひとは顔を上げた。年配のマスターは彼女のために、いつも少しだけミルクを多めに入れたカフェラテを用意してくれる。その優しさが、ひとにとってのこの店の居心地の良さだった。

「おはようございます。庭の紫陽花、今年も綺麗に咲きましたね。」

「ええ、手をかける甲斐がありますよ。自然は正直ですから、ちゃんと応えてくれるんです。」

マスターはそう言いながら、彼女に微笑んだ。ひとはその言葉を反芻するように何度も心の中で繰り返した。


彼女がこの店に通い始めたのは、半年前のことだった。その頃、彼女は大切な人を失い、日常のどこにも心の落ち着きを見つけることができなかった。そんなとき、このカフェを偶然見つけたのだ。

「静かな時間が流れる場所が必要だったんです。」

そうひとはマスターに話したことがある。マスターは何も言わず、ただ彼女のカップに温かいコーヒーを注ぎ続けた。


この日もまた、ひとはメモ帳に何かを書こうとしていた。けれど言葉が思いつかないまま、彼女はコーヒーを一口飲んだ。その瞬間、庭に小鳥が舞い降りた。小さなスズメだ。くちばしには何かの小さな実がくわえられている。

その光景を眺めているうちに、ひとはふと気づいた。何も書こうとしなくても、この時間そのものが彼女にとっての癒しであり、意味だったのだと。

ペンを置き、メモ帳を閉じると、彼女はそっと息を吐いた。カフェの中には、コーヒーカップを置く音とマスターがカウンターで作業をする音が微かに響いている。それは彼女にとって、心を落ち着かせる「静かな時間」だった。

「そろそろ行きますね。また来週。」

席を立ったひとに、マスターはいつものように笑顔で答えた。

「またお待ちしています。」

カラン、と鈴が鳴り、ドアが閉まる。外の光に目を細めながら、ひとは次の一週間を過ごす力を得た気がした。




あとがき

「静かな時間」を最後までお読みいただきありがとうございます。

この物語は、忙しい日常の中でふと立ち止まり、自分と向き合う時間の大切さを描きたくて書きました。私たちは時に、何かを成し遂げなければならないというプレッシャーや、喪失の痛みに押しつぶされそうになることがあります。それでも、静かな場所で穏やかな時間を過ごすことで、心が少しずつ癒され、新たな一歩を踏み出せる力が湧いてくるのではないでしょうか。

この小説が、読者の皆さんにとって、心を休めるひとときとなれば幸いです。私自身も、この物語を書きながら、静かな時間の中にある温かさを再発見しました。

次にまたお会いできる日を楽しみにしています。

ありがとうございました。


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物語の綴り手
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