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短編小説『優しいウソ』
まえがき
人はときに「ウソ」に救われることがあります。それは、真実を隠すためのものではなく、相手を守るため、あるいは前に進む力を与えるための、優しさに基づくウソです。本作『優しいウソ』は、そんなウソが生む心の温もりと、そこから生まれる新たな一歩を描いた短編小説です。
主人公・陽子が直面するのは、愛する人との別れという人生の大きな試練。しかし、彼女はある日、ふとした優しさに包まれたウソに気づきます。そのウソが彼女にもたらしたものとは何だったのか。そして、それを胸に、彼女はどのように未来へ向かうのか。
誰しもが経験する「喪失」と「再生」。この物語を通じて、読者の皆さまにも、大切な人との絆や記憶、そして前に進む力について考えるきっかけとなれば幸いです。どうぞ最後までお楽しみください。
朝の冷たい空気が、カーテンの隙間から差し込む光とともに部屋に満ちていた。陽子はベッドの中で目を開け、時計を見た。7時半。いつもの時間だが、今日は何かが違う気がした。
台所から聞こえるフライパンのジュッという音と、漂うバターの香り。陽子は小さく微笑み、ベッドから足を下ろした。
「おはよう、翔太くん」と陽子が台所に向かいながら声をかけると、テーブルに背を向けている夫の翔太が振り返り、少し照れたように笑った。「おはよう。今日は俺が朝ごはん作る番だからね。」
テーブルにはきれいに盛り付けられた目玉焼き、焼き立てのトースト、そしてミルクティー。陽子は椅子に腰掛けながら、ふと心に小さな違和感が生じた。
「ねえ、翔太くん、今日は休みだったっけ?」陽子は疑問を口にした。翔太は笑いながら肩をすくめた。
「いや、今日は少し遅く出ても大丈夫だからさ。ゆっくりしようと思って。」
いつものように優しい声だった。陽子はそれ以上は深く考えず、熱いミルクティーを一口飲んだ。ほっとする甘さが、心を温めてくれた。
朝食が終わると、翔太はコートを羽織り、「行ってくるよ」と短く告げた。玄関で靴を履く姿を見ながら、陽子は「気をつけてね」と笑顔を送った。
ドアが閉まる音が響き、家には静寂が戻った。陽子はその場に立ち尽くしたまま、何かが胸の奥でざわめくのを感じた。
リビングに戻ると、テーブルの上に見慣れない封筒が置かれていることに気づいた。陽子はそっとそれを手に取り、中身を確認した。そこには翔太の丸い文字でこう書かれていた。
「陽子へ」
**「ごめんね、今日の朝食が最後になる。俺はもうここにはいないんだ。陽子を置いていくことは本当に辛いけど、君の笑顔を見ていると、それでも生き続ける理由を感じた。
でも、本当はもう2年前に俺は旅立っているんだ。陽子が見ていた俺は君の心が作り出した幻。優しいウソにすぎないんだよ。
それでも、今日の朝食は君と一緒に過ごしたかった。これからは君自身の時間を大切にしてほしい。どんな時でも君を愛してる。」**
封筒を握りしめ、陽子の目には涙が溢れていた。しかし、その涙は悲しみだけではなく、温かさにも満ちていた。
陽子は空になった椅子に目を向け、小さく笑った。
「ありがとう、翔太くん。」
陽子は静かにテーブルを片付け、新しい一日を始めるために窓を開けた。外の光が部屋に流れ込み、心の中の空白を少しずつ埋めていった。
そして、陽子は前に進むことを決めた。その優しいウソを心に抱きながら。
−完−
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