祈り
私の身近にいる人間を、気の毒に思う。
彼女らは性暴力被害者の親で、恋人で、友人で、知人になってしまった。
言わなければ無かったことになると思っていた。そうできなかった。
その点においては罪悪感を覚える。同時に、「私が悪いのではない」とも思う。矛盾している。
書かなければ生きていけない。そんな言い回しは嘘だと思っていた。書かなければ、には他の言葉も当てはまる。話さなければ、描かなければ、歌わなければ、演じなければ。それらはおおよそポジティブな原動力を持っているのだと思っていた。
私は強姦被害者になるまで、書かなければ生きていけないと思う日が来るとは想像していなかった。そもそも強姦という表現も漢字も嫌だ。レイプ被害者も嫌だ。AVなどのコンテンツの影響だろうか。強制性交も嫌だ。私が受けたのは性交ではない。理不尽で、屈辱的で、許しがたい暴力だ。
被害に遭ったのに、私は悪くないのに、何故居心地の悪さを感じなければならないのだろう。私が受けた理不尽を、加害者の醜悪さを叫びたい。誰にも知られたくない、無かったことにしたい。両方の思いが同じ強さで私を責める。
真逆の叫びに、矛盾する思考に、どうして私が引き裂かれ苦しまなければならない。苦しむべきは加害者のお前ではないか。
殺してやる。毎朝目が覚める度決意する。
凄惨な死に方で理不尽に殺されてしまえ。眠れない毎晩に祈る。
祈りが叶わないならば、いつか、毎朝の決意を実行する日がするのではないかと不安に思う。
決意をとどめているのは、可哀想な母と、健気な恋人の存在のみだ。
2人がいなければ、すでに加害者の家を燃やしたと思う。
友人はきっと、私の愚行を哀れみながら、許すも許さないも分からない遠くに行ってくれると思う。良識のある、優しい友人たちだから。
それでも私は、母や恋人に報いることはできない。
暴行で妊娠中絶をした私は、もう子を作りたいなんて思えない。
妊娠が、悍ましい、被害の象徴としか思えない現象になってしまった。
申し訳ないと思う。本当に。
母も恋人も、私を尊重してくれる。私の存在を肯定してくれる。
それでも、私が娘でなければ。私ではない人間をパートナーにすれば。
そう思うことを止められない。
私が自死を選べば、二人に傷を残してしまうと思う。
殺さない理由も死ねない理由もそれだけだ。
私は私自身に意味を見出すことができなくなってしまった。
それはとても悲しいことだと思う。けれど、私は悪くない。それだけを信じている。