noteをやろうと思った理由の話 2,291文字
はじめに
僕は以前から、noteとかブログとか、そういう物書きの端くれ中の端くれでいいから書くことを、何となくやりたいなーと思っていた。
その理由として、多分、僕は他の人よりも多く頭の中で何か考えているタイプの人間だという自覚が少なからずあるからだ。イメージで言うと、頭の中で自分の声(独り言)が飛び交っている感じだ。
でも、大概のことは頭の中で考えて、すぐに忘れて無かったものになってしまう。
なので、そういう考えは何かに記しておかねば、メモを残さねば、という僕なりのアウトプット本能があったのだが、いざ実行へは移せない、そんな体たらく状態が数年間続いていた。
いったい何を考えているのか、という話になるが、別にたいしたことは考えていない。
例えば、ラジオを聴いていて、テレビを観ていて、
みたいなことを常に考えている。好奇心旺盛なので。
しかしながら、なにか目に見える形で残すことはしないから、やっぱりどんどんと忘れていってしまう。
皆もそういう自問自答は無意識的にしていると思うが、量は僕の方が人よりも多い方だと、根拠はないが確信している。まあただの癖の一つに過ぎないものだ。
そういう”癖”があるという背景を踏まえ、僕がnoteという名の新世界に足を踏み入れた理由を列挙し、整理する回にしたいと思う。
noteを始めた理由
1. 言語化スキルをつけるため
”言葉”というのはあらゆるシーンで、非常に重要な役割を持つ。
なぜなら文明社会に生きる我々は、言葉で意思の疎通をして互いの理解を深める。文章をという媒体を通じて知識を付けていく。
僕は普通の会社員なので、職場のシーンで例えてみよう。
ビジネスシーンに限らずだが、会話という場面には常に伝える側とその受け手の二者が存在する。
伝える側の上司がメッセージを部下に伝える時に、その言葉の巧みさ次第では、その受け手側である部下のモチベーション、生産性、理解力さえも左右されることがある。
上司が結局のところ何を言いたいのか分からなければ部下は不安だし、説明がチグハグだとなんだか頼りないし、部下を鼓舞したいときにそのポイントがずれていれば心配にもなる。
また、伝える側が内容を完璧に理解していたとしても、その受け手側が理解できる言葉の選択や表現の選択ができなければ、やはり思ったようには相手に伝わらない。結果的に理解に至らないので前に進むことができない。
こういった、日本語→日本語への翻訳という作業についても、僕が思う大切な言語化スキルの1つだ。
つまり、
”どのようにすれば、より高い精度で伝えることができるか”
”どのようにすれば、その言葉が相手に影響や効果を与えられるか”
その練習をしたいということが、僕がnoteをやる理由の1つ目である。
2. 長い文章を書くことに慣れるため
組織風土や配属部署によってかなり左右されるとは思うが、僕の勤め先での社員間でのコミュニケーションの9割以上はチャットになる。
MicrosoftのTeamsとか、Googleのハングアウトとか、Slackとか、そういう類のものだ。電話・メールの数は確実に年々減ってきている。
そういうツールはとても便利だが、長い文章を送ることはほぼ皆無だ。
そうなると、いざ手紙を書こうと思っても全く筆が進まない。
いつも結論や答えだけを書くことに慣れてしまったせいで、何から始めて、何で締める、というストーリ性を持った文章を書けなくなってしまった。
加えて、対社内向けの部署にいると、社外の人との畏まったやり取りからは、意図せずともかなり遠ざかっていってしまう。言葉の表現が狭く、限定的になってしまうのである。
日常的に、一言二言の短いメッセージ、あるいは多くても100文字程度コミュニケーションが成り立ってしまっているので当然と言えば当然だ。
多少長くても内容がわかりやすい、興味深い、そういった文章を書けるようになるために、当分の間は、「前置き→コンテンツ(中身)→まとめ」の基本形に則って執筆をしていくつもりだ。
3. 自分の持っている考えを整理するため
例えるならば”日記的な使い方”という意味があり、文章に書き起こすことで、自分の考え、ひいては自分が本当にやりたいことを可視化して整理するという目的がある。
まず、noteに書きたいと思う事柄は少なからず自らにとって優先度が高いとはずだ。いわば、自分自身を形作る思想や事物などがそれにあたる。
次に書くという行動についてだが、書き進めていく過程で必要不可欠な要素をしっかりと抜き出して、不要な部分はカットする。そして書き進めていく中で、疑問があれば調べる。
なんだか思ったように上手く書けないなと思ったら、上級者の記事を参照してみる。そうすると自分の表現の幅も広がるおまけも付く。
いずれ、記事のストックが溜まっていくにつれて、自分の興味や大切にしたい本質が文字として、時系列で記録に残る。
ただ頭の中で考え込んでいるだけだと、混沌としたものになり、取捨選択が上手くできないまま時間だけが過ぎていく。
”書く”ということを積み上げていくことで、人の形をした、自分という器の中身が少しづつだが満たされていくような感覚を得られている。
今日時点では、全容量1,000ccのうちのたったの10ccくらいしか入っていないが、毎週2本のペースは崩さずに、書き溜めていくつもりだ。
結論:いわゆる自己満足