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noteの相互フォローは、文通のようなものなのかもしれない

2025年。年が明けてから、私は毎日noteを書いている。正直、誰と約束したわけでもない。でも続けている。3日と続かない私が、日付がまわったり、休みたいなと思ったりしながらも、なんとか毎日“分”noteを書いては公開しているのだ。この奇跡を、なんと例えよう。

仕事も恋愛も何もかも(は言い過ぎかもしれない)長続きしない私が、noteを(しかも毎日!)続けてこられたのは、明確な理由がある。顔見知りの友人が毎日、コツコツと私のほぼ中身のないnoteにスキを送ってくれるからだ。「見ているよ」「応援しているよ」と言われている気がして、スキの通知が来るたびに心がほかほかするのだ。それはプレッシャーともまったく違う感情で、とにかくどうして、他のどのSNSでもらうそれとは違う種類のうれしさがあるのだ。

「この気持ちはなんだろう」

何度も繰り返し歌った合唱曲の出だしのように、私はふと、その「違う種類のうれしさ」について考えた。朝食を作って、洗濯物を適当に畳んで、PCの電源を入れようとした時に、ひとつの仮説を思いついた。

「noteって手紙のようなものなのかもしれない」と。

誰かに伝えたくて書いた文章に、応えが来るとうれしいものだ。じゃあ私は、私の手紙に応えてくれた彼女たちのそれを読んだことはあっただろうか。手紙を読んで、応えたことはあっただろうか。

まったくないといえば、それはノーだけど、彼女たちのようにこまめに反応することはなかった。なんて奴だ。薄情な奴め。手紙を送ってばかりで文通になっていないじゃないか。

私は急いで、彼女たちのnoteを読んで、スキを送った。そうしたら、彼女たちのnoteのなんと楽しいことか。人の文章を読むのは、とっても楽しいものなのだ。「うんうん」と頷いたり、「そんなことがあったんだ」と驚いてみたりしながら読み進めると、どこか懐かしい気持ちになるものなのだ。そう、なんだろうこれは。そのとき、私は確信した。「やはり、noteの相互フォローは文通なのだ」と。

言っておくが、だから反応して欲しいと言いたいわけでもないし(されたらとびきりうれしいけれど)、これからもずっとずっと毎日絶対スキをくださいね、もうあなたたちはそうしてくれることを知っていますよ、と暗に言いたいわけでもない。神に誓って。そりゃあそうだろう。当の本人は、真逆のことをしているのに、そんなこと言える立場にいないじゃないか。そう、私は“薄情な奴”という汚名を返上したい見習いの身なのだから。

兎にも角にも、今日から私にとって、noteから届くフォロワーさんの投稿通知は、お便りの知らせになった。自分が送った後に、今か今かとポストの中身を見に行くワクワクが毎日の楽しみになったのだ。

さあ、ポストに手紙を出しに行こう。そして私は、次の手紙を書く前に、いろんな手紙をまた読みに行くのである。

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