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十四 翠令、痛みを覚悟する
ガターンという大きな音が屋内から聞こえた。
これを好機に翠令は男達に「失礼します」と言い置いて中に入り、相手に何も言わせないよう大急ぎで戸を閉めてしまう。
書庫の中に戻ると椅子が倒されており、その傍に姫宮が立っていらした。
「翠令が困ってるみたいだったから、とりあえず大きな音を立ててみたけど……」
翠令は一礼して申し上げる。
「助かりました。どうあしらったらいいのか考えあぐねておりました」
正智も心配そうな面持ちだ。
「帰り道は気を付けた方がいいでしょう。いや、学生相手なら翠令殿がやっつけておしまいでしょうけどね。大学で学ぶお坊ちゃんには下男がついていることもあるんですよ。場合によっては手荒なことも辞さないような乱暴者も召し抱えてたりします」
「分かりました。姫宮、日が暮れないうちに早く帰りましょう」
姫宮は名残惜しそうな顔をなさる。
「じゃあ、この本のこの部分だけ読み終えていい?」
内容に引き込まれている読書を中断するのは辛いものだ。翠令は特に読書家ではないが、それくらいのことは分かるので「よろしゅうございます」と微笑んだ。
翠令が書庫から外に出ると日が随分と傾いていた。西の空が朱く染まり、大路の東の奥には既に薄青い翳が漂い始めている。
翠令と姫宮は大学寮の門から外に出て大路を足早に歩く。聳え立つ巨大な朱雀門さえくぐれば、もう大内裏だ。
築地塀に凭れていた柄の悪そうな男三人連れが翠令の目に止まった。そして、彼らは翠令と目が合うとにやりと笑い、身を起こすとこちらに歩き始める。
幅の広い大路だというのに、翠令達の近くですれ違おうとしている彼らを、もちろん翠令は警戒した。
そして、無事にやり過ごせたと思って翠令が息をついた時。
「……!」
後ろから男の一人に羽交い絞めにされてしまった。「翠令!」という姫宮の高い声が耳に飛び込み、別の男が翠令の頬に拳を叩きこもうとしているのが目に入る。
翠令は体を柔らかくして身を落とし、背後から締め付けて来る男の腕をすり抜けた。
「お?」
翠令を殴ろうとしていた男の拳は急には止まらない。
「げっ!」
翠令に見舞われるはずだった一撃は、翠令を抱えていた味方の男に命中する。
「この女!」
「同士打ちさせやがって!」
翠令は素早く立ち上がったが、男はもう一人いた。脚を上げ、翠令を蹴り倒そうと足を振る。翠令は横っ飛びに跳んで避けた。その先で身構えると、腰に佩いた刀を抜く。
だが、相手の男たちは動じない。
「おお? こりゃあ勇ましいこって」
「錦濤の姫宮の守刀なんだってな。へえ、いい剣持ってるじゃねえかよ」
「だが、こんなところで刀なんか振り回してていいのかよぉ」
「……?」
眉根を寄せる翠令に、男たちはだらしなく笑いかける。
「こんな御所の近くで流血沙汰かあ?」
翠令は吠える。
「それはお前たちが襲い掛かってくるからだろう!」
「こっちは刀なんか使ってない。拳の喧嘩だというのに剣で血を流すのかぁ?」
翠令は唇を噛んだ。貴い姫宮を連れているのだから当然剣でお守りするまで。しかし、姫宮の存在は極秘だ。ここで翠令が剣を使うと、ただ掴みかかってきた相手にいきなり斬りつけたということになってしまう。
びゅんと空気を切って、また拳が翠令を襲う。
「……!」
躱した。だが、別の男も襲い掛かる。身を翻してそれも避けた。
「翠令!」
男の一人がしゃがんで姫宮を抱きかかえていた。
「な……!」
男がヘラッと笑う。
「おい、大人しくしてろ。でないとこの餓鬼に手を掛けるぞ」
「やめろ!」
「こっちも子どもに用があるんじゃない。あんたに用があるんだ」
「女の分際で東宮の近衛なんか生意気なんだよ」
「女は腕っぷしで男に勝てない。それを証明するんだ」
男達は翠令ににじり寄る。
「お前が痣だらけになって骨の一本でも折れてみりゃあ、女武人なんか護衛の役に立たねえことが一目でわかる」
「とりあえずお前は御所から出ていけ。東宮も武人を身の周りに置くなんてことはあきらめてもらおう」
「武官の佳卓って奴より、文官の円偉って方の方が偉いんだろ? 俺の主公が言ってたぜ」
やはり円偉を崇める学生の手の者だったのか。翠令は目を瞑る。
彼らは、翠令が近くにいることで東宮が佳卓を贔屓することを怖れていた。ならば、佳卓を取り立てるきっかけになりそうな翠令を排斥すればいいと考えたのだ。
翠令は歯を食いしばった。姫宮を人質にとられている以上できることはない。痛みはただ耐えるだけだった。
ゴツっと骨がぶつかる音は、しかし外から聞こえた。
「……?」
筋骨たくましい大柄な男が現れ、翠令の相手の男を殴り倒していた。そしてその隣にいた男の腹に蹴りを入れる。
「うほっ」
二人が呻きながら地面に倒れる。男は残る一人を見た。その横顔の鼻梁は奇妙に高い。その髪色は黄金に近い明るい茶色。その異形の巨漢に睨まれた相手は青ざめて狼狽えた。
「は、は、白狼か!」
京の街髄一の盗賊の頭目だった男の口調は静かで、そこに凄みが滲み出る。
「女を殴るのは感心しないな」
「だ、だ、だって……よぅ! 刀! あの女は刃物を振り回してるんだぜ!」
「じゃあ、お前も刀で受けて立て」
「……」
「子どもを人質にするとは、やることが小物だな。そんな奴に京の街を歩かれては不愉快だ」
その碧い瞳の一睨みに相手の男は竦み上がる。
翠令の視界の隅でざりっと土を蹴る音がした。翠令がそちらに視線を向けると、倒れていた男二人が背中を見せて逃げ去るところだった。最後の一人も、へへっと意味の分からぬ泣き笑いのような顔をして二、三歩下がり、そして踵を返して脱兎のごとく去って行く。
姫宮が嬉しそうな声をお上げになった。
「翠令を助けてくれてありがとう! 貴方は名前を白狼っていうのね?」
白狼が笑んだ。
「ああ。久しぶりだな、嬢ちゃん」
「お前!」
翠令は白狼に食って掛かる。
「この方を嬢ちゃんと呼ぶなどと無礼だろう……」
続きを言いかけて翠令は考え直した。白狼にはその前に言うべきことがある。
「いや……白狼のおかげで助かった。礼を言う」
「礼なら朗風か佳卓に言うんだな」
「……?」
白狼は朱雀門に向かって歩き出した。帰路につけと言いたいのだろう。翠令と姫宮も後に続く。
「朱雀門は衛門府が護衛している。翠令が女童を連れて出ていくところを、遠目から朗風が見つけたんだ。あいつは目がいいから」
歩きながら翠令は無言でそれを聞く。
「……」
「朗風から報告を受けた佳卓が、ちょうど近衛府にいた俺に二人を守れと命じた。大学寮の中には入れなかったが、あんたたちが門から出て来てからは少し離れてつけていた」
「……そうか」
そうか、姫宮のお忍びの外出は早い段階でばれていたのか。そう翠令が理解するやいなや、姫宮の心配そうな声が聞こえた。
「ひょっとして……。それじゃあ、私をお外に出してくれた大人たちが怒られてしまうかしら? でも、誰も悪くないわ! 私が行きたいって我が儘を言ったからなのよ!」
白狼は面白そうに、自分の胸にも届かぬ背丈の少女を見下ろす。
「怒るくらいなら、佳卓は自分が報告を受けた時点で止めさせてるさ。あいつとしては、あんた達二人に最後までのびのび楽しんで欲しかったようだ」
確かに、朗風からの報告に顔色一つ変えずに即断する佳卓の姿がすぐに想像できる。それだけに翠令は悔しい。
「申し訳ありません、姫宮。せっかく近衛大将佳卓様が気遣って下さったのに……私が至らず……」
「何が至らないんだ?」
白狼が心底不可解そうに翠令を見ていた。
「あんたは優秀な護衛だろう。このお嬢ちゃんを守るためなら、痣と骨折くらいはさっさと受け入れる判断をしたんだから」
「でも……」
「あんた、反射神経がいいな」
「……」
「至近距離で不意を衝かれたというのに、相手の腕を抜け出して攻撃を次々と避けた。剣だってよく手入れされている。山崎の津では俺を相手にあれだけ敏捷に斬りかかってきたんだから、あんた、遣えるな」
「……」
「京の都で俺と佳卓ほど腕の立つやつはいない。あんたは、俺たちに及びはしなくとも、さっきの連中よりはずっと剣は上手いはずだ。それでも、このお嬢ちゃんを盾にとられては剣を使うことが出来ない。なら、自分のことはさっさと諦める。忠実な護衛だ」
白狼はとことことついて来ている姫宮に笑みを向ける。
「従者からこれだけ忠誠を捧げられている嬢ちゃんも、きっといい主公なんだな」
「ありがとう。翠令を褒めてくれたこともお礼を言うわ」
「ああ、胆力と剣技は俺も実際に目にしてなかなかだと思う。俺はもう盗賊じゃないが、手下に翠令のような腕の立つ女が居れば助かっただろうな」
賊に仲間として見込まれても、翠令は微妙な顔しかしようがない。
「そうか……」
「剣が使える女なんて滅多にいないからな。俺の手下に居たら、貴族の邸宅に女のなりで忍び込ませて内側から鍵を開けさせて奇襲するとか、色々戦略の幅が広がっただろう」
翠令はまじまじと白狼を見た。
「……佳卓様も同じようなことをおっしゃっていた」
白狼は「まあ、あいつと俺とは似たような所が多いからな」と口の端を上げる。姫宮に向けるものともまた異なる、親愛の情が籠った表情だった。
白狼は内裏の門で見送ろうとしたが、そこを姫宮がお引止めなさる。
「お礼がしたいわ。一緒に中に入れないか典侍に聞いてみる!」
それは無理だと翠令は思う。後宮に男を立ち入らせることなどたやすく許されることではない。気のない返事をする白狼自身もそれはよく分かっているようだった。
それでも姫宮は「ここで待ってて。中に入れてくれないか聞いてみるから」とおっしゃり、白狼を残して門をくぐった。
典侍はやはり「さすがにそれは出来ない」と首を横に振った。
「その白狼とやら、姫宮と翠令殿を助けてくれた恩人ではあります。また、私も無意味なしきたりに囚われまいと思います。されど……」
典侍が息を吐く。
「理由なく見知らぬ男を出入りさせれば姫宮のご評判に傷がつきます。佳卓様ほどのご身分があればともかく……。せめて女装でもできるくらい小柄ならいいのですが、大柄でしかも妖のような異形とあらば人目をごまかせません」
姫宮は「でも……」とおっしゃる。
「礼ならば、この典侍のとっておきの御酒を渡しましょう。大人の男君にとってはそちらの方が相応しいお礼かと存じます」
「……わかったわ。白狼が喜ぶならそちらの方がいいものね……」
門で待つ白狼のために、典侍が翠令に瓶子を持たせる。そしてこっそりと翠令に囁いた。
「済まぬの。竹の宮の姫君が男に襲われたという忌むべき記憶があるゆえ、見知らぬ男を昭陽舎に入れるのに抵抗があるのじゃ。その白狼という男君に詫びておいておくれ」
もっとも当の白狼は全く意に介しない。
「嬢ちゃんの好意なんだろうが、俺は別に後宮に立ち入ることができるとも立ち入りたいとも思っていない。……それより」
白狼は渡された瓶子の蓋を開けて、鼻先に近づけた。
「うん。いい匂いだ。相当に上等な酒だぞ、これは」
豪快で太い笑いが彼の口から零れ出る。
「礼ならこっちの方が断然嬉しいさ。典侍という女も気が利くな。そうだ、あんたもこれから俺と一杯付き合わないか?」
「……ああ」
姫宮を助けてくれた相手だ。誘われれば受けるべきだろう。
白狼は右近衛の所属だが、西に歩くのが面倒だからと、左近衛の建物にずかずかと入って行く。そして、誰も使っていない一室を見つけて「ここにしよう」と腰を落ち着けた。部屋の中央に卓と数脚の椅子がある。
白狼はそのまま瓶子を回し飲みする気らしいが、もちろん翠令はごめん被りたい。部屋を見回すと片隅に不揃いな椀があったので、それを数個並べ、白狼にも自分の分を選ばせた。
白狼は大振りの椀を選んでなみなみと酒を注ぐ。「そのまま瓶子に口をつけて飲めばいいのに……邪魔くさいな」と文句を言うが、そのまま「ほら、あんたも」と翠令の分まで小ぶりの椀に入れてくれるのだから、意外に他人の世話を焼くのが嫌いではないのかもしれなかった。
翠令が白狼に尋ねる。
「宮仕えはどうだ?」
白狼がふんと鼻を鳴らして笑った。
「最悪だ」
「……」
「もう三人ほどと喧嘩した。皆が皆、佳卓のような度量がある訳じゃないからな。つまらないことで怒りだす。『呼び捨てにするな』だの『敬語を使え』だの……」
翠令が深々と息を吐いた。さっきから気になっていたのだ。佳卓や朗風を呼び捨てにして、全く敬語を使わない。
「言葉遣いくらいは改めたらどうだ?」
白狼は、その返答のためには酒を飲む手を止めようとしない。悠々と杯を干してから、馬鹿馬鹿し気に「変える気はない」と素っ気なく言い捨てる。
「白狼……立場に応じた言葉遣いに改めること、それが宮仕えと言うものだろう……」
「俺は佳卓を主公と定めた。あいつには恩があるからな。だが、他の奴に仕えてやる気はない」
「賊であった白狼を許し、仲間にしてくれたのだろう? その温情に感謝するべきじゃないのか?」
白狼が思いもかけないことを聞いたという訝し気な顔をする。
「温情……?」
「そうだ。佳卓様に恩があるなら、周囲の情けにも有難さを感じるべきだ」
白狼は首を振る。
「ちょっと、翠令が何を言っているのか分からないな」
「だから……」
白狼はごく真面目に口にした。
「『恩』と『情け』は全然別のものだろうに」
「……は?」
翠令は盃を運ぶ手を止めて首を傾げた。翠令には「恩」と「情け」は似たようなものに感じる。言葉の上で何か違いはあっただろうか?
白狼も少し困った様子を見せる。
「悪いな。俺も学があるわけじゃないから、言葉だけで上手く表せないが……」
そうだ、と白狼は続けた。
「例えばだな、『恩』を俺に売った佳卓と『情け』をかけた他の者達は違う。佳卓は俺のこの口調を咎めない。しかし他の連中は俺の口調に腹を立てる。……な、違うだろう? だから『恩』と『情け』は別物なんだ。分かるか?」
今度は翠令の方が盛大な苦笑いを浮かべて首を振る番だった。
「いいや、分からない。全く説明になっていないぞ、白狼」