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五十六 翠令、下級の文官を案内する(二)
「お前が東国に行っている間に白狼に罪を擦り付ける。『姫君の合意もなく一方的に襲い掛かった』という罪状でね」
翠令の頭に瞬時に血がのぼる。何かを言いたいが、あまりのことに言葉が出ない。佳卓の兄は構わずに説明を続けた。
「その上で、直属の上司である右大将趙元に『監督不行き届き』だと責任を取らせる。軽くて右大将の職の辞任か、悪くすれば遠流だ。竹の宮の姫君を襲ったとあらば事は重大だからね」
翠令が「白狼は何もしていませんっ!」と怒鳴る。それと同時に、一方で佳卓は「なるほど……」と呟いた。
翠令は勢い余って佳卓にも噛み付く。
「何が『なるほど』なんですかっ!」
「円偉殿はね、私を取り巻く人間関係を断ちたいんだよ。私が円偉殿と共に文官としての道を進まないのは、白狼や趙元など円偉殿以外の人々とのしがらみが邪魔をするせいだと思われたんだろう。だから、彼らを私の周囲から消したいんだ」
佳卓の兄も深刻な顔で同意した。
「そう、それが本筋だと思う」
佳卓が呻く。
「だから、白狼は死ななければならない」
「だから、何故です! 白狼は何も罪など犯していない!」
「無実だから、だよ。白狼は潔白だ。彼は生きている限り無実を叫び続けるだろう。自分の保身だけではなく姫君の名誉のためにもね。だから口を封じなければならない」
「……濡れ衣です……」
「死人に口なしというだろう? 白狼には姫君を襲うような卑劣漢であって貰わねばならない。それを口実に趙元を粛清したいわけだからね」
「そんな……そんな理由で人の命を……」
「円偉殿にとっては白狼のような身分の者の命など紙より軽いからね」
「何と言うことを……。あれほど、君子は徳を備えよ、民を思いやれと偉そうに言っていた御仁が……!」
翠令が自分の「君子」という言葉ではっと思い出した。
「君子……そう、君子。朝廷には帝や東宮様がおられる。円偉様のそのような策謀、この御二人が許すはずがありませんっ」
佳卓の兄が考え深そうな顔を翠令に向ける。
「そう。私も帝と東宮の存在を考えた。帝については、円偉殿が傅育官だったし、ご体調が悪い故、あまり円偉に強い態度は取られないかもしれない。しかし、錦濤《きんとう》の姫宮が黙っておられないだろう。十の少女とはいえ、真っ直ぐなご気性で物怖じなさらずご自分の意見をおっしゃる方のようだから」
そして、佳卓の兄は翠令を見てちらりと笑んだ。
「それに血の気の多い女武人も傍に控えていることだしね」
「……」
佳卓も兄の軽口につられて軽く片頬をあげたが、すぐに真顔に戻った。
「今上帝のご体調は……? 例年、このように夏の終わりは臥せっておられることが多うございますが……」
「それが……あまりよろしくない。今年は特にお疲れが出ていらっしゃるようだ。日がな一日うつらうつらとなさっているほどだとか……。それもあってか御位をお譲りになりたいとも口になさる」
佳卓が表情を改める。
「ご譲位をお考えなのですか?」
「ああ。傅育官の円偉殿の薫陶を受けた今上帝は、天子の徳について高いご見識をお持ちだ。あのような暴君の子が帝位に就いていてもいいのか前から逡巡なさっていた……」
それは翠令も直にお聞きしたことだった。そう、姫宮と初めてこの御所に上がった日。ご体調の良かった帝が清涼殿にお招き下さり、そこで「あの暴君の子が玉座にあるのが心苦しい」と仰せになった……。
翠令がその折の話をし、佳卓の兄も佳卓も揃って痛ましげな顔を見せた。佳卓の兄が続ける。
「決して今上帝に何の落ち度もおありでないが……。皇統は確かに錦濤の姫宮の方が正しい。姫宮の父君は何の非もないのに廃太子になられた。今上帝が、御子をもうけられない内に錦濤の姫宮に譲位なさりたいとお思いでも、それは理に適ってはいることだ」
翠令が息を吐く。
「錦濤から船出した頃には、今上帝に御子ができたらそちらに帝位が移る故、『錦濤の姫宮など仮の東宮に過ぎない』と陰口を叩かれていたものですが……」
佳卓が話を引き取った。
「今上帝は生真面目な方でいらっしゃるから……。今すぐでなくとも、錦濤の姫宮へのご譲位なさる道筋をつけるだけでも気楽にお感じになるかもしれない。ただ……目下のところ、今上帝にそのようなご意向があるなら、円偉殿の意図がますます読めない」
佳卓の兄も腕を組む。
「そうだ。今上帝が姫宮に位をおつがせになる。『仮の東宮』どころか、帝になることが確実になりつつある姫宮に円偉が盾突くとも思えない……」
佳卓の兄は組んだばかりの腕を解くと、やや強めに頭を振った。
「円偉殿のお考えを追求しようすると、ここらあたりで先が見えなくなるんだ……」
佳卓も渋面をつくる。
「錦濤の姫宮は白狼に汚名が着せられるのを黙って見ている方ではない。必ず真相を徹底的に調べるようお命じになる。そして、それは真っ当なご主張だ。大義は姫宮にあり、円偉殿には無い。円偉殿はそれを分かってなお姫宮と対立を深めようとするだろうか……。そこが理解できない」
佳卓の兄も言う。
「錦濤の姫宮が東宮でいらっしゃるかぎり、円偉殿が白狼を害して佳卓だけを取り込もうとする試みは不可能だ」
佳卓の兄はここで深々とため息をついてから先ほどと同じような言葉を繰り返した。
「分からない。分からないんだ……」
下級官人の服を着た佳卓の兄は話し疲れたように目を瞑り、佳卓もまた眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
誰も何も言えずに、時間だけが過ぎていく。翠令はこうしている間にも、白狼に魔の手が忍びようっているかのような焦りを感じる。沈黙の重さに耐えかねて、翠令が何かを言おうとしたとき、佳卓がやや躊躇いながら口を開いた。
「全ては私にも分かりませんが……。別の面から見ると、円偉殿は竹の宮の姫君の生活に介入したいともお思いなのかもしれません」
「介入、とは?」
「白狼に襲われたことにすれば、そして警備に手落ちがあったとして右大将を解任すれば、その後、円偉が竹の宮の姫君を保護する口実ができることになる……」
「口実をつくったところで……それで? 保護とは具体的に何を?」
佳卓も予想がつきかねるようだった。
「それは……分かりませんが……。都の西の竹の宮よりも京に近い、あるいは京の宮城内の円偉殿の邸宅に近いところに宮をつくって差し上げて、そこに姫君を移してお世話申し上げるとか……」
「確かに円偉殿が若い頃に姫君に思いを寄せておられたとは私も聞いているが……」
「その当時の円偉殿は若い学生に過ぎず地位も権力もなかった。今の円偉殿であれば、内親王のお世話をして差し上げることも不可能ではありません」
「皇女であられた方に、ご自分の元に御降嫁いただきたいと思っていらっしゃると?」
佳卓は苦笑して、その兄の見解には首を振った。
「そういう方向とはまた違うのではないかと感じます。円偉殿にとって姫君は神聖な方として崇拝する対象であって、妻に望んでいらっしゃるわけではないのではないかと」
「憧れの女君に傅くのも男の夢ではあろうが……。しかし、それだけのために、白狼を殺害し、いずれは帝となられる錦濤の姫宮を敵に回すようなことをするだろうか……。動機がやや弱い気がする……」
佳卓が天を仰いだ。
「分かりません。円偉殿の思惑を推しはかろうにも、やはりここらあたりで手詰まりとなる。白狼を殺せば東宮と敵対することになる。円偉殿ならそれくらいの先は読んでいるはずです」
佳卓は再び「分からない」と首を振ってから、翠令を見た。
「翠令はどうだ? 何か思いつくことがあるかい?」
翠令も首を振らざるを得ない。ただ、円偉が錦濤の姫宮をどう思っているかについては少し考えがあった。
「円偉様は、あまり錦濤の姫宮を尊んではいらっしゃらないように思われます。これまでも、所詮は女の子どもと一段下に見ているかのような……。どこか侮っているような節があったかと……」
「仮にも東宮でいらっしゃる。円偉様は身分の秩序は重んじられる方だ」
「ええ……。だから、女で子どもの錦濤の姫宮でも一応の礼節は取ろうとしてはいらした……けれど、昭陽舎の合議でご自分の面子が潰された今は……以前まであったその礼節も一段と軽くなったように思えます……」
「まあ、あの昭陽舎での円偉殿の態度からするに怒りは簡単には解けそうにないが……。だが……」
佳卓と兄が交互に口にする。
「だからと言って……。姫宮は東宮であらせられる」
「円偉殿は彼なりに道理を重んじる。私的な感情だけで動く方ではない」
翠令はふと頭に浮かんだ考えを声に出してみる。
「では、私的な感情に道理が加わればどうでしょう?」
この兄弟は声もどこか似通っていた。
「それは……厄介だね。道を守ることには純粋な方だからね」
「自分を純粋だと思っている者の行動力ほど性質の悪いものはない」
「しかし……」
「その道理とは何だ?」
翠令は困った顔で首を振った。
「分かりません。分からないのです」
三人が一斉にため息をつく。結局三人そろって「分からない」ということしか分からないのだ。
がやがやと人が入って来る物音がした。近衛の交代の時刻となったらしい。佳卓の兄が腰を浮かせた。
「そろそろ私はここを去ろう。文官がこんな場所で話し込んでいると不審がられてしまう」
佳卓は、立ち上がった兄に向って、座ったままながら一つ首を下げた。
「貴重な情報を知らせて下さり有難うございます」
そして佳卓は続ける。
「とにもかくにも白狼は何とかします」
「ですが……」と口を挟んだ翠令に、佳卓もやるせなさそうに返した。
「白狼と竹の宮の姫君との仲を引き裂くことになり、双方から恨まれるかもしれないが……。何事も命あっての物種だからね。恨まれて済むなら恨まれるさ」