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十六 翠令、失せ物騒動に遭う(一)
新緑が日に日に濃くなる。
庭の樹木の下に佇む翠令が天を見上げた。春の終わりの陽光が、未だ薄いままの木の葉を透かし緑色の光となって木漏れ日と共に降り注ぐ。一方で、その明るい緑の中を脈状に走る木の枝は、一度気になると奇妙なほどに黒かった。
緑と黒の対比を翠令が眺めているうち、自分を呼ぶ女性の声に気が付いた。
「もうし、翠令殿、もうし」
庭の片隅に立つ翠令を、縁の高欄まで出て来た女房が呼んでいた。典侍から話があるのだという。
翠令が母屋に入ろうとすると、几帳の陰から典侍が姿を現した。翠令が近づこうとしたが、典侍は軽く首を振る。
「いや、あの篭の側にてお話致そう」
廂と簀子との境目に篭が置かれており、二人はその隣に腰を下ろす。
「翠令殿。大した用件ではないのだが、貴女にもこのようなことがあると知っておいてもらった方が良いかと思うて」
篭の中には細い紙を挟んだ棒切れのようなものが一つ入っていた。典侍がそれを手に取り動かすと、美しい扇が現れる。翠令は意外に思った。
「綺麗な絵ですね。このように紙を貼った扇を蝙蝠扇というのだとか。閉じた状態では只の棒切れのように見えましたが……」
「そう、この扇子は閉じられているときにはつまらぬ棒か何かのようにしか見えない。ゆえに、掃除の際に不要なものとして捨てられるところじゃった」
翠令は軽く息を吐いた。高価そうなものが失われなくて良かった。
「よく気づきましたね」
「この後宮にあるものは言わば全て帝の御物。外に持ち出せぬよう何重にも検められる。出入りする人も物もじゃ。塵芥であっても捨てる前に何回か調べられるからこうして気づくことができる」
翠令は「厳重なことだ」と感じた。さすがは禁裏というべきだろう。
「この話を翠令殿にするのは、盗みの場合と紛らわしいこともあるからじゃ」
典侍がすっと扇子を閉じ、胸元に入れた。
「手違いで大事なものが捨てられかけるということはままある。ただ、何か物がなくなると誰かが盗んだと騒ぎになることもあっての。それが近衛の翠令殿の耳に入ることもあろう。ただ、その際には、手違いで捨てられかかっている可能性も頭に置いておいてもらいたい」
「そうですね。誰かを疑う前に、捨てられかかっているごみを調べることにした方がいいでしょうね」
それから十日ばかり経った頃、翠令が佳卓に会いに左近衛府の役所に向かうと、建物から一人の近衛舎人が出てくるところだった。その男の顔のこめかみ付近が青黒く変色している。間違いなく殴られた痣だ。翠令がぎょっとした顔で足を止めた。
「どうしたんだ、その顔は?」
声を掛けられた男も立ち止まった。
「いや……。この間、喧嘩をしちまって……」
「理由は何だ?」
「なんでも昭陽舎で扇がなくなったんだそうで、それが俺の仕業なんじゃないかと疑われましてさ」
事情を聞けば、梨の典侍が翠令に見せてくれたあの蝙蝠扇のことのようだった。無事に見つかったのに、「紛失した」という噂が立ってしまったらしい。
「あの扇は見つかった。それなのに、どうしてお前のせいだと言われなくてはならない?」
「俺がもともと白狼様の手下で盗賊だったからですよ」
ああ、この男は白狼と一緒に近衛に迎え入れられたのか。確かに疑いを掛けられやすい経歴だが、あの扇については事実無根だ。
「後宮の建物の中にお前のような男は入れないことは誰だって知っているだろう?」
佳卓のような貴公子や女性の翠令ならともかく、近衛舎人が殿上に上がることなどまずないことだ。
「それが……あいつら、俺が殿上で働く女房を脅すか唆すかして持ち出させたんだろうと言うんですよ。白狼様の一味は盗みを働くに違いないって決めつけた上で、つっかかってきますから」
「その『あいつら』とは誰のことだ?」
「もとから近衛にいて、佳卓様に反感がある奴らですよ。佳卓様に雇い入れられた俺たちのことを嫌ってる……」
「……」
「俺が非番の時に、都の小路でたまたまそいつらに出くわして、喧嘩になって……いや喧嘩とは言わないか、やられっぱなしだったし」
男は痣の上に手を置いて、悔しさをかみ殺した顔をした。
「殴り返すと、白狼様や佳卓様の立場が悪くなっちまう……。俺、ぐっとこらえましたよ。だから俺の方からは手をだしてねえっすよ」
「そうか。よく……よく堪えた」
男は翠令からの賛辞が嬉しかったらしく、少し明るい顔をした。
「なあに、白狼様には食わせてもらった恩がありますんで」
誇らしげな彼に向かい、翠令はいたわりの念を込めて頷いた。
翠令は急ぎ足で佳卓の元に向かう。衝立の向こうで佳卓はいつも通りに自分の机で書類に目を通していた。その普段と変わらぬ姿が翠令には苛立たしい。
「佳卓様! あの男をご覧にならなかったのですか?」
佳卓は書類を読み続けながら口だけを動かす。
「殴られて痣になっている男のことかね?」
「そうです」
佳卓は相変わらず翠令に視線を向けぬまま、息を吐いて肩をすぼめて見せた。
「翠令が他の男の心配をするとは。妬けてしまうね」
翠令はつかつかと歩むと、佳卓の机を両手で力任せに叩いた。
「ふざけるのも大概にしていただきたいっ!」
翠令の背後から、低い男の声がした。
「まあまあ」
振り返ると右近衛大将趙元が立っている。
「仲良く喧嘩中のところに悪いが、私も佳卓様に用事があるんだ。いいかな? 翠令」
佳卓が書類を置いて、椅子から趙元を見あげる。
「やあ、趙元。待っていたよ。どうだね、白狼は?」
「しばらく右近衛府の役所の建物の中で過ごさせるつもりです」
翠令が首をかしげていると、趙元が説明してくれた。
「昭陽舎で扇が紛失したと噂されている件だ。それを盗難だとして白狼の手下達に疑いを掛ける者が多くてね」
「私も先ほど因縁を付けられた挙句に殴られたという男と話しました。他にもいるのですか?」
「諍いにまで進展したのが数件。そこまでいかずとも嫌味や当てこすりを白狼の手下に言うのはもっと多いな。それが耳に入ってきて白狼が苦しんでいる。自分のせいだと済まながっているんだ」
白狼は右近衛に配属されており、右近衛大将趙元が直接の上官にあたる。
「そんな……白狼は何も悪くないでしょうに……」
「もちろんだ。ただ、彼の風貌をいつまでも妖のようだと嫌悪する者も多くてね。何か変事があれば白狼やその手下が疑われる」
「……」
椅子に座る佳卓の声がした。
「噂というのは放っておくと消えるものだが……」
佳卓が自分と同格の右近衛大将趙元にも椅子を勧め、趙元が首を振りながらそれに座る。
「普通はそうです。しかし、白狼のあの目立つ容貌を目にする度に、人々が自分の嫌悪感と結びつけて噂を蒸し返すので、終わりが見えません」
「そうか……」
「本人も人目に触れぬよう振る舞っています。今日は私に屋内で仕事をさせてくれ、と頼んできました」
気の毒なことだと翠令は心の中で嘆息した。あの手足の長い大柄な男が衆目を気にしてて屋内に籠り、縮こまって過ごさなければならないとは……。心身ともにさぞ窮屈なことだろう。
佳卓も渋い顔をしている。
「役所の中で彼は何をやってるのかね?」
「いや、何も……。文字が読み書きできれば書類仕事でもさせるのですが、彼はそれができません。手持無沙汰だと鬱屈が溜まってしまうのでよくないと思うのですが……」
佳卓は向かいに座った趙元ではなく、宙を見つめて呟いた。
「文字、文字か……。読み書き……」
佳卓はうん、と首を縦に小さく振り、再び趙元に視線を向ける。
「どうだろう、白狼を竹の宮に送ってみては?」
「ああ、なるほど」
翠令が「何故です?」と佳卓に問うた。
「何故という質問に答えるなら、それは『竹の宮が真名の学び所だから』だよ」
「はあ……」
「前に言わなかったかね? 竹の宮の姫君に円偉殿が初学者向けの学習書を差し上げたので、竹の宮で真名を学ぶ武人が多いのだ、と」
「それは伺いました。そうではなく、何故白狼を追い出すような真似をなさるのかをお聞きしたいのです。それでは彼への疑いを肯定することになりかねません。蝙蝠は誰にも盗まれていない。白狼は誰にも恥じるところがない。こそこそする必要など全く無い!」
佳卓は正面からは答えない。
「白狼に限らず、近衛の武人には文字の読み書きができるようになることを推奨している。年を取って体を悪くしてからでも何かの仕事につけるようにね」
はぐらかされたような気がした翠令が気色ばむ。
「それはまだ先で良いことでしょう! 何も今でなくとも!」
佳卓は例のごとく人を食った答えしかしない。
「今、白狼は文字が読み書きできないことが分かったんだから、今でいいじゃないか」
「佳卓様、またそういう……」
趙元が手を挙げて翠令を制した。
「今の方がいい。いや、今がいいんだ、翠令」
「……」
「白狼は近衛に来て日が浅い。今なら、上官の私が、白狼が読み書きできないことに初めて気づき、驚き慌てて学ばせることにしたという体裁を整えることができる。時期を遅らせると、この言い訳が不自然になってしまう」
「そうまでして、なぜ白狼を外に追いやろうとするのです? 御所に留めた上で誤解を解くのが筋だと思いますが?」
佳卓が素っ気なく言い捨てた。
「無理だね」
「佳卓様!」
「人間は理屈だけで動かない。動けない、と言った方がいいかもしれない。妖のようだと嫌悪する人間に『それはお前の目が見慣れていないだけなのだ』と他人の私が教え諭すことはできるだろう。しかし、偏見を持つ人間の感情を瞬時に消し去ることは非常に困難だ」
「ですが!」
「時間を掛ければそれなりに理解は進むだろう。それくらいのことは出来る。私も趙元もそう務めるし、可能だろう。しかし、その間辛い思いをするのは誰だね?」
「……」
趙元が横から言い添えた。
「佳卓様も私も白狼が謂われない悪意を向けられるのを黙認するつもりは全くない。だが、何も悪くはないのに白狼に一方的に耐えろというのも酷だろう。我々としては一度彼を京から出して、時間を稼いでその間に環境を整えたいと思っているんだ」
「時間を稼ぐ……」
佳卓がぽつりと口にした
「これまでが性急に過ぎたなのかもしれない」
「性急?」
「私も趙元も近衛に白狼と翠令を迎えて嬉しく思っている。二人とも得難い人材だ。だが、得難いというのは珍しいということでもあるわけでね……」
趙元も加えた。
「翠令だって、白狼が近衛に召し抱えられたと聞いて激昂しただろう? 『賊が近衛に入るのか』と」
「……」
「同じことだ。白狼のような異形の賊が近衛に迎えられたことを不快だと感じている者はそれなりにいる」
翠令は目線を下げた。そうか……。元盗賊の白狼を近衛に召し抱える理由を、翠令自身は佳卓から説明されて納得した。しかし、たとえ同じ説明を受けても、それでも不満に思う者も多いだろう。
趙元は「言いにくいことだが……」と前置きして続けた。
「翠令についても反発する声がある。翠令自身は何も悪くないが、女君と言えば御簾内で着飾って過ごすか下働きをするかが当然だとされている中で、武人として外にいるのを受け入れがたいと感じる者もいる」
佳卓が肘をついて指を組んだ。
「女君と言えば東宮様もだ……。錦濤という見知らぬ街から見知らぬ少女が突然東宮になった。時を同じくして賊が近衛となり、女君が武具を持って身近をうろつく。それまで自分たちが常識と考えていたものが変化することに、不快を通り越して恐怖さえ覚える者もいる」
「白狼も私も誰の何をも脅かしません……姫宮だって……」
翠令は反駁してみたが、尻すぼみになってしまう。姫宮や白狼、翠令が現実にどうであるかが問題なのではなく、それを是としない人々の主観が問題であり、それはどうしようもない。
変化そのものに対して人は多かれ少なかれ恐怖を抱く。
変化を決定した側の佳卓や趙元、当事者である姫宮や翠令、白狼にとっては受け入れられても、周りで見ているだけの者にはそう単純ではない。自分に何の関係もないところで自分の身の周りが変えられていくのをただ眺めているしかない人々にとって、納得いかない変化は不快であり不安であり、そしてそれが昂じると恐怖となる。
佳卓と趙元の言わんとすることも分かった。しかし……。
「では、そうすれば……。環境を整えるとおっしゃいましたが、何が出来るとお思いなのですか……」
佳卓が翠令を見上げた。
「私にできることが一つある」