性被害者に対する第三者による非難について
(友人に尋ねられた質問への回答として書いた文章がそれなりにまとまったので久しぶりのnote投稿に使うことにしてみました。)
まず第三者による非難がどういった意味合いから発せられるものか2つの側面に分けて考えてみる。
1つ目は、加害者擁護。
露出度の高い服装をしていた、下ネタを楽しんでいた、深夜に一緒にタクシーに乗った、といった被害者の言動から加害者が「そういう気」になるのは仕方がないという主張。つまり、そうした言動は、文化的または経験的に育まれた、お互いの同意を確認する「コード」であり、それを理解せずにそうした言動をとって被害にあったのならそれは被害者に責任があるとするのである。
しかし、この「コード」に個人の認識差があることにこの主張の誤りがある。さらに厄介なのは、被害者責任論を同性が主張することである。このコードが経験的に育まれるのであれば、それが機能した前例があるということで、それを許容している女性(或いは男性が)いるということである。だが本来であればこんな失敗率の高いコードは機能してはならず、正しい性的同意が浸透すべきである。性的同意をその場の空気を読む読解の問題にしてはならないはずである。読解の問題だからこそムードができる、感情が高まるという意見もあるが、それを理由に深く傷つく人がいていいとは思わない。
性的同意の概念が広く浸透してない今日の社会では、それを犯罪にされちゃ困ると主張が闊歩する。(そもそも法整備が追いついておらず、刑事事件として立件できないケースもまだあるから、そういった意味での泣き寝入りが多いのも事実である。)
2点目は被害者の今後の被害確率を減らすためとする悟しの意味合いである。先述したようなコードの認識がある社会において、それは是正されるべきであるが、当面はそれが続くから、勘違いされるような行為、被害を受けても世論の擁護を受けられない行為を慎むよう窘めるのである。夜道を一人で歩くべきでない、胸元の開いた服は着ていくべきでないといった類がそれに当たる。
こちらは加害者擁護に比べれば大分ましだと思える。被害者本位の考えであるし、あなたのためだという意味合いがある。しかし、これが非難になったとき、1点目の加害者擁護の意味合いが含意としてある。非難において2点目の意味合いだけが独立することはあり得ない。たった1%だけだけどあなたに非があるという思いがなければ非難にはならないはずである。
よってこの第三者による被害者非難は明らかなるセカンドレイプである。
人間は事件事故に妥当な理由付けをしたがる生き物である。しかも因果応報を好む。
先日の大阪の飛び降り自殺に巻き込まれ19歳の女子大学生が亡くなった事故では、飛び降り自殺をした男性への非難が止まなかった。だがもし巻き込まれて亡くなるのが80歳のホームレス男性だったらどうだっただろうか。恐らく同じようにはならないはずである。
一方で1999年に起きた桶川ストーカー殺人事件では、警察署の会見及び報道によって形作られたブランド品を好む遊び女というイメージにより、被害者の女子大学生への軽蔑感情のほうが大きくなった。これが真面目な社会貢献活動に励む女子大生だったらどうだっただろうか。
このように、災いが降り注ぐ先にどんな人間がいるかで人々の判断は簡単に変わってしまう。
当事者ではないからこそ、切り取られた情報でその出来事を自分の納得のいく、または自分に潜在的に潜む価値基準に照らし合わせ妥当な理屈をつくりあげてしまう。またその評価が他人と一致したときにそれは威勢を増し、次々と人々を巻き込み、巨大な国民感情へと化する。それは1人の個人が対等に対峙できるものではない。
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