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臆病者の。

頭でっかちをやめて、己の腕を脚を肉體を動かして、他人を巻き込んで、形を生み出して。

それでしか自分の求めているものに辿り着かないと思う。そう思う。そう思うのに。

これでも必死にやってるつもりだけど、自分は自分がもっとやれることを知っているから。身体を動かそうと思えば動くというポテンシャルを認めているのは他でもない自分自身だから。

だから自分を1番許せないのは自分で。

身体を動かすことはシステマチックなことだから。だからノイズがあったら僕らは動けなくなってしまう。

ノイズキャンセリングの方法はあって。鈍感になるしか道はない。短絡的な即時的な悦び愉しみは僕らを鈍感にさせる。それから耳を塞ぐこと。感覚器を鈍らせてノイズをキャッチできないようにする。

でも理性は短絡的な即時的な悦び愉しみに抗うから、理性がある限りそれ自体がノイズの発生源になる。

耳を塞ぐことは。塞ぐことは怖くて怖くて仕方がない。どこにいるか分からなくなってもそれでも身体を動かし続けなければならない。

それなら耳を塞ぎ安全な場所にこもればいい。システマチックに身体を動かせばいい。

でも待って。安全な場所はどこにある。

耳を塞いだところで、その覆いを破って聴こえてくる叫びもあるし、いくら安全だと言われても目隠ししたら不安は呼び起こされる。

堪らず耳を澄ませ目隠しを外す。

ああ身体の動きが。動きがとまる。

そして今日もまたノイズをおかずにご飯を食べる。

ノイズをお供に食う飯が旨くて旨くて仕方がない。

美味しいのに。美味しいのにこのご飯は僕の身長も体重も一切増やさない。もたらすのは噛んでいる実感と満腹感。そして遅れて虚無感。

本当の充実感を味わいたい。そのために。そのために、抱いた恐怖を強く抱きしめ、自分の感覚を他人に拡張するしかない。

臆病者が安心して耳を塞げる日は近いかな。

臆病者はいま。いま心がざわついてる。

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