勉強は人生の選択肢を広げるか
「勉強なんかできなきゃ良かった」
私が日頃感じていることである。勉強ができれば人生の選択肢が広がると再三言われてきたが、人生22年目の今、私の選択肢は勉強によってどんどん狭められていったという実感だけがある。
もちろん、人生の先輩たる皆様からしたら「たかが22年で人生を語るな」と思われるであろうことは重々承知している。私だって勉強がいつか選択肢を広げてほしいとは思っている。しかし、もし何らかの形で私が今ここで死を迎えたなら、「たかが22年」が私の人生の全てとなるのだ。私は、今この時点での私の思いを記録することが必要だと考えた。これから私のこれまでの人生の選択肢が勉強によってどう狭められていったかを綴っていく。
私は母の7年間の不妊治療を経て、父が40歳、母が39歳のときに生まれた。兄弟や姉妹はいない。待望の一人娘だったのでお金をかけて大切に育てられた。幼稚園は母の旧友から勧められた良さげな幼稚園に行ったし、その後母による「校長の方言がキツいから」という謎の理由で、地元の小学校ではなく、当時県内に唯一あった私立の小学校へ行くことになった。余談だが、私の母は県内でもトップクラスの田舎で生まれ育ったので誰よりも方言がキツい。
小学校に入ってすぐ分かったことがあった。どうやら私は「勉強ができる」らしいということだ。夏休みの暇つぶしに通わされていた学研教室の先生が「この子は違う」と褒めていたらしい。確かに、その後中学を卒業するまで、私は宿題以外の勉強をすることなく90点台や100点を当たり前のように叩き出す子どもだった。だが、今思えばこれが悪夢の始まりだった。母は私が勉強ができることにより周りから褒められる喜びを覚え、私に「〇〇ちゃん(私)が勉強で褒められることが何よりの親孝行だ」と繰り返し言うようになった。また、私が勉強ができることを知った母はすぐにある野望を抱いた。それは我が家系で誰も成し遂げることができなかった、県下随一の公立進学校へ私を入学させるということだ。それはやがて母だけの野望ではなくなり、祖母や叔母も早い段階で私に期待するようになった。事実、物心ついた時には私は「〇〇高校に行く」のが私の行くべき道なのだということを教え込まれていた。
私に期待をかけたのは何も母方の親類だけではない。父はあまり興味の無い振りをしながら私をより権威ある(とされる)道を歩ませるために誘導していった。私がまだ小学校低学年のとき、テレビで見た理科の実験に対して軽く興味を示したら、「理科の先生になればいい」と言われた。ここまではまだ妥当だが、その後3年に上がり、理科は虫についても教えないといけないことが分かった私が理科の先生になりたくないと言うと、「大学教授なら好きなことだけできる」と言ってきた。専門分野について研究するという意味ではあながち間違っていないのかもしれないが、幼かった私は「好きなことだけできる職業」という意味で「ダイガクキョージュ」という単語を覚えることとなった。将来の夢を聞かれて「ダイガクキョージュ」と言えば周りの大人は喜んだが、私にとっては「好きなことだけしたい」と言っているだけのことだったのだ。ここで特に喜んでしまったのが母だった。ただでさえ勉強ができることで周りから娘を褒められ鼻高々だったところに、「将来の夢は大学教授」なんて言ってもっと周りに褒められるのだから、さぞ気持ち良かったに違いない。
父はまた、私の進学先について期待しすぎない素振りで「自分より良いところに行きさえすればいい」と言った。しかし、父の出身校の偏差値は決して低くない。家庭環境の影響で国公立にしか進学できないという縛りがあり実際の偏差値よりは数字が下がる学校に進学していたものの、高校は県北トップの公立進学校、大学も県内の国立大学だった。私が勉強ができるのは父の遺伝だったのである。大学は要求レベルが高いにしてもまだ選択肢があるが、高校で地元を離れさせる気がなかった我が家にとって、父の言う「自分より良い」高校は実質3校ほどしか無かった。だが言葉で操られやすい私は「お母さんに比べてお父さんはそこまで期待をかけていない」などと信じ切っていた。
小学5年生のとき、とても些細な、しかし私の人生を狂わせることになる事件が起きた。当時流行していた『逃走中』を観ていた私は、またもや短絡的に「タレントになれば逃走中で遊べる」なんてことを思った。しかし、小学生の将来の夢なんてそういうものだろう。私は小学校で将来の夢を聞かれて「タレント」と言ってしまった。今までずっと「大学教授」と言ってきたのだ。小学校の先生方もさぞ驚いたことだろう。その驚きを母にそのまま伝えてしまったのだ。
「〇〇ちゃん、将来の夢変わったみたいですよ!タレントになりたいんですって!」
そう聞いた母は不思議と苦笑いをしていた。
帰りの車の中、乗り込んだ瞬間に母の顔から表情が消えた。
「将来の夢がタレントって、お父さんに絶対言わないでね」
そう言い捨てると母はそのまま無言で家まで車を走らせ続けた。普段の母はとても朗らかでよくギャグなども飛ばすような人間だ。帰りの車の中というのもその日私が学校で起きたことを様々に話してそれを母が聞いてくれる楽しい時間だった。しかしその日、いつもと違ってニコリともしない母の姿は私の記憶に強く焼き付けられた。これ以降、私は人前で自分の将来の夢を話せなくなった。
「父に言うな」と私に伝えたはずの母は、帰宅後なぜか自分の口で私の「失態」を父に話した。父は普段は優しいがキレると怒鳴り散らすタイプだった。父を怒らせて私に言い聞かせようとでもしたのだろうか。しかし父の私に対する反応は母の予想していたであろうものとは違った。
「大学教授でテレビに出ている人もいる。大学教授になればタレントにもなれる。」
これも確かに嘘ではない。私はとりあえず「ダイガクキョージュ」と言い続けることをやめてはいけなかったのだということを子供ながらに悟った。
小学6年を経て中学校に進学した。行くべき高校が決まっていた私は高校受験のために受験に特化した私立中学校に進学した。中学受験の際、行くつもりもないのに見栄のためだけに県内でも偏差値の高い学校を受けさせられたが、やる気がなかったので受からなかった。
中学時代、私が憧れた職業は2つ。声優とミュージカル女優だ。小学校には演劇の授業やミュージカルの鑑賞会があり、それらを通じて演劇に魅了され始めていた私は、中学校では演劇同好会に所属した。演じることは楽しくて仕方がなかった。これを仕事に出来たならどれだけ幸せだろうと何度も思ったが、そんなことは口が裂けても言えなくなっていた。親には勿論、周りの誰かに言ったなら、そこから親に漏れてあの悪夢のような状況をまた体験することになるかもしれない。結局私の儚い夢は誰にも語られることなく露と消えた。
さて、高校受験である。ここでもまた残念なことがあった。それは私が長年行くべきとされてきた憧れの高校に余裕で入れてしまう実力を持っていたいうことだ。受験前から合格が見込まれていた私はある「暇つぶし」をすることになった。受験に特化した私立校には合格実績が必要不可欠である。私は中学の合格実績を打ち立てるために、都内の某難関女子校を受験することになった。名目は受験の予行練習。正直県立入試とその高校の入試とではレベルの差が激しすぎて、予行練習とは何なのかとは思うが、暇つぶしにはもってこいだった。しかし、今思うと行きもしない上に滑り止めでもない学校を受験して何の意味があったのだろうと思う。無事合格を収めた私の実績は中学のポスターにでかでかと載せられた。我ながら誇らしい気持ちにはなったがもっと誇らしかったのは母であろう。中学受験のときには叶わなかった「難関校合格」が果たされたのだから。その後、当初の志望校には当たり前のように合格し、私は親戚の中で英雄となった。
中学時代に関してはもう1つ触れるべきことがある。それは「呪いの言葉」の初登場である。三者面談で私が志望校に余裕で受かりそうであることを伝えた当時の担任は母と私にこう言った。
「頑張れば東大も行けるかもしれないですよ。」
まだ高校受験の勉強も始まっていないような時期だ。気が早いにも程がある。しかし母は舞い上がってしまった。私が県内トップの高校に行くだけで満足できるはずだった母は、美しき大海を見せられてしまった。その頃、いとこが東大生と結婚を前提にお付き合いしていたこともあり、母は娘を東大生にしたくなってしまったに違いない。私は私で単純な思考回路をしていたので「あぁ、私は東大に行けるかもしれないのか」と思い、それ以降東大を意識することになった。
高校入学。親に言われて入った高校ではあったが、偶然校風が私に合っていたのでとても楽しい高校生活を送ることになった。楽しいのは良かったが2点だけ大きな問題があった。1つ目は宿題が全く出せなくなってしまったということだ。この異変の原因は最近になってようやく分かったが、この話には関係無いので割愛する。しかし、「宿題をやるだけで」勉強ができていた私が、肝心の宿題を出せなくなってしまったので、中学までのように勉強ができる人ではなくなってしまった。2つ目は高校が「東大至上主義」であったことだ。県内には私の母校ともう1つ同レベルの公立進学校があった。2校はよく比較され、特に東大合格者数は新聞に書き立てられた。ライバル校に負ける訳にはいかない我が母校は、少しでも見込みのある生徒には片っ端から「頑張れば東大に行ける」と吹き込み、東大を受験させていた。不謹慎ながら、合格可能性が低いのに東大を受験させられる生徒は友人間で「特攻隊」と呼ばれていたが、私はまさにその「特攻隊」に所属することとなった。しかし思い出してほしい。私は高校入学後に宿題ができなくなり成績もそんなに良くなかったはずなのだ。そんな私がなぜ「特攻隊」に入隊することとなったのか。ここで私の「不幸体質」がまた猛威を振るうこととなる。2度ほど、全国模試の成績優秀者一覧に載ってしまったのだ。日頃勉強していなかったので定期試験の順位は低かったが、持ち前の「不幸体質」でごく稀に高い点数を叩き出し、目をつけられてしまった。高校の担任は3人共「東大を目指そう」と言ったし、母にも面談でそれを伝えた。母もその気になった。私は他に強い希望もなかったので東大志望と言っていたが、先述の通り勉強はしていなかった。今思えばこんなやつが受かるはずがない訳だが、周りの大人はみんな盲目的になっていた。
大学受験が近づくにつれて、私はあることに気付いた。それは他の東大志望の人達と気が合わないということだ。まともに勉強していなかったのだから当然である。しかし、それを抜きにしても私は彼らの雰囲気にどうしても馴染めなかった。高校は奇跡的に校風が合っていたが、もしどうしても気の合わないような人達が多数進学するような大学ならば、私は馴染めるはずがない。東大志望者でまとめられる課外のクラスに行くのが苦しくなり始めた。朝出かける前になると吐き気を催すようになった。実際に吐いてしまったこともあった。私は3年次の担任に志望校を変えたいと何度か申し出ていた。しかし、毎回受け入れられなかった。敵にダメージを与えられる見込みが少なくとも、パイロットは多い方がいい。そう簡単に捨てる訳にはいかなかったのだろう。志望校なんて心で思っていればいいんだから、口では東大と言って違うところの勉強をすれば良かった。だが、元来全く嘘をつけない私は、私が東大に行くと信じ切っている親と担任を裏切って他の大学の勉強をすることができなかった。私はついに心が壊れた。
東大至上主義が蔓延した校内において反逆者たる私に対しても味方になってくださる先生はいたので、私は保健室に逃げ込んで日々を過ごした。担任は取り合ってくれなかったが、親には本心を伝えてすらいなかったので伝えなければいけないということになった。小学5年のあの時の嫌な記憶が蘇る。いつも明るい母から再び「拒絶」されるのかと思うと恐ろしくて堪らなかった。
その日も車の中だった。私は泣きながら「東大に行きたくない」と母に伝えた。あまりにもおかしな光景である。皆が行けるものなら行きたいと思う大学、その上私が真面目に勉強していたとて行けるかどうかも分からないような素晴らしい大学に、「行きたくない」と言って泣いているのだ。だが当時の私は大真面目だった。とにかくもうあの教室に行って東大志望として振る舞うことはしたくなかったし、東大以外で唯一オープンキャンパスに行った某私立大学の方が私には合っていそうだったから、その大学に進学したかった。そう伝えられた母はというと、あの時のように顔から表情が無くなっていた。そして一言、
「育て方を間違えた」
と言った。母の発言の真意は未だに分からない。受験直前になって怖気付いたと思ったのだろうか。確かにそう思われても仕方が無い時期だった。しかし、代替案として出した大学もそう悪い大学ではない。拒絶されることを恐れた私はできるだけ安全策を取ったのだ。それでもダメなものはダメだった。どうやら育ち方を間違えたらしい私は絶望の淵に追いやられた。
結局受験期にまともに勉強ができなくなった私は、併願校も補欠止まりだったので浪人することになった。父に直接頼めと言われたので「浪人させてください」と頼んだら、「どこも受からなかったんだからしょうがないだろ」と怒鳴り散らされた。勉強していなかったとはいえ、幅広く併願していたらどこかしらには受かっていただろう。それができなかったのは長年の「勉強ができる」と「東大に行ける」によって培われたどうしようもないプライド故だった。私だけじゃない。周りの大人達も同様に私について私と同じようなプライドを抱いていた。
余談だが、高校時代に憧れた職業はアナウンサーだった。何とか親の逆鱗に触れることなくテレビの中に入る手段はもうこれしか残されていないと思ったのだ。しかしそうなると、今度は自分の見た目の悪さが気になり始めた。小学3年生から皮膚科に行ってもニキビが治ったことのない肌、低いのに大きな鼻、長くて深い人中、とてもハイビジョンに耐えうる顔面ではなかった。おまけにスタイルも悪かったので見栄えなんかするはずがない。私は自分のルックスが大嫌いになった。
さて、1年の浪人期間を経て私は念願だった某私立大学に通うことになった。合格した途端、母は手のひらを返したように弊学の信者になった。1年前に行きたいと言ったら「育て方を間違えた」と言い放ったはずの大学である。私は、母が愛しているのは私自身ではなく私の中の優秀な部分でしかないのではなかろうかと思うようになった。
サークルにも入りながら楽しい学生生活を過ごしていた私は、人並みにインターンなどにも参加するようになった。正直言って、もはや私にやりたいことなどない。親から拒絶されないために、優秀な娘であるために、なんかとりあえず大手の有名な企業に入らなければいけない気がする、でもどこかで昔の夢を引きずっているといった感じでエンタメ系を志望していた。就活の本番が近付くにつれて私は何も出来なくなっていった。自分が優秀でないことが明かされてまた親から拒絶されるのが怖くて仕方がなかった。頼まれると断れない性格が災いしサークルやバイトでも無駄に蝕まれていた私の弱い心は再び壊れることとなり、私は就活を諦めた。
以上が私の今までのこれまでの顛末だ。だいぶ話が逸れたので原点に還ろう。勉強は人生の選択肢を広げるのかという話だ。正直言ってこれまでつらつらと書き連ねてきたような人生を送ってきた私は、「勉強ができる」ことによって岐路での選択肢を大いに狭められてきたと感じている。中学はほぼ1択、高校も1択、大学は1択だったところを無理やり広げて3択ぐらいだ。本来は際限なく選択肢があるはずの就職においても、「優秀な娘であり続ける」という条件が邪魔をして相当選択肢が狭まっていたに違いない。確かに私が親や親戚、教師からのプレッシャーや誘導を跳ね除けられるほど強い心を持っていればこんなことにはならなかったし、実際同じような状況で自分の手で選択肢を切り開いている人は沢山いるのだろう。ただ、私はそう言われたところで、それができない私には生きる価値が無いのだろうとしか思えない。何せ育ち方を間違えてしまったのだ。皆が皆強くはない。ましてや、子どもの頃から親孝行の定義が優秀であることとされていたのだ。日本で育った人間の多くが虹を7色だと思うように、その常識を疑うことは容易いことではないだろう。
また、そうは言っても勉強によって選択肢が広がっている人が沢山いることも分かっている。しかし、それは「映画版ジャイアンの法則」ではないだろうか。出木杉君が良いことをしたところで誰も気に留めないが、ジャイアンが良いことをすれば皆がそのギャップに驚き賞賛する。それと同じ現象ではなかろうか。ビリギャルだってビリでギャルだったから勉強によって選択肢が広がったのだ。一般的に勉強によって得られるとされる能力や権威から距離のある人は勉強によって視野を広げることができるが、最初からその周辺に位置している人間はそれを目指せば目指すほど視界が狭まっていく。私にとって世界はとても狭いものだった。
この長ったらしい文章を通じて私が何を言いたかったのか。それは「勉強が人生の選択肢を広げる」ということの否定ではない。前段で述べたよう広げる場合があることを私は知っているし、むしろその方が多いだろう。私は、「勉強が人生の選択肢を広げる」という言葉が独り歩きすることにより、その言葉を使って結果的に子ども達の選択肢を狭めていくような、そういう大人に己のやっていることを自覚してほしいのだ。あなたが「勉強は人生の選択肢を広げる」と言うことにより、その子の選択肢は本当に増えているだろうか。そして何よりも、あなたは「勉強は人生の選択肢を広げる」と言って勉強させた子どもの打ち立てた実績によって何か利益を得ていないだろうか。その子が成長したときに「自分は利用されていただけだった」「優越感を感じるための道具にすぎなかった」と思ってしまうような利害関係は存在しないだろうか。そもそも勉強には「study」の側面と「learn」の側面があるはずだ。「study」ばかりを重視させていないだろうか。そこまで己に問いかけてから初めて「勉強は人生の選択肢を広げる」と言ってほしい。私はそう思うのだ。
壊れ物注意の心を持った私はついに優秀で親孝行な娘ではなくなろうとしているが、未だにその呪縛から逃れられず、何とか優秀であるための道を探っている。いつか現代文の授業で学んだ『山月記』の李徴が思い出される。「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」。まさに私にピッタリの言葉だ。皮肉にもここで「勉強」が、しかも「study」が役に立ってしまった。勉強が人生を豊かにすることは間違いない。ただ、それだけを取り柄にする(させる)ことが危ういだけなのだ。そんなことを思いながら、私は今日も優秀であるために図書館で勉強をしている。