父の弔辞
去年の10月30日、日曜日の朝方。
尾辻克彦さんの小説『父が消えた』を読み終わり、
本を閉じた瞬間、電話の着信が鳴った。
一度も電話をしたことの無い相手、長兄からだった。
「…もしもし?」
「さっきお父さん死んだけん、今すぐ家来て」
一方的に電話は切られた。
携帯画面を見て首をひねった。通話時間8秒。
8秒で済ませる内容じゃない。兄は変わり者だ。
昨日までは元気だった父が急逝した。
お酒を呑んだら記憶を無くす人だった。
夢のなか急性心不全で亡くなった。
まるで予兆のような内容のタイトルの小説をさっきまで読んでいたせいか。実家の寝床でにっこりしてある父親の死顔を見たせいか。着々と葬式の準備をしているにも関わらず、残された兄2人が誰にも訃報連絡をしないせいか。マンバンヘアという海老のお寿司みたいな髪型をしている次兄が一言も喋らないせいか。7年振りくらいに顔を合わせた変な兄弟関係に気まずさを感じているせいか。一人娘なのに涙が一滴も出て来なかった。
しかし、残された家族の中では自分が一番まともで冷静で社交性があるんじゃないかと気付き、隠れ喪主となり、明るい声色で訃報連絡を担当することにした。
父の携帯の連絡先の人達に電話する度に、受話器越しで相手側の方々ばっさばっさと泣いていく。
友人が多い人気者の人だった、と。いつもにこにこ微笑んでいる人だった、と。その場にいるだけで和む人だった、と。人を疑う事を知らない人だった、と。良い人すぎる人だった、と。
17歳で実家を飛び出た一人娘にとって、父の人柄を語ってくれるたくさんのその泣き声は、衷心より有り難く感じた。
さて。葬式の弔辞を誰に頼もうか。
変人な息子たちと、反抗期が長かった娘で、父親を弔っていい訳がない。
小さい頃から可愛がって貰っている父の幼馴染に大ちゃんという人がいる。
その奥さんから情報を得た。
生前に父は、大ちゃんと、
「どっちかが先に死んだら弔辞読み合おうや!」
そんな約束をしていたらしい。
先に父が死んでしまった。約束通り、幼馴染のおじちゃんに弔辞をお願いした。
すると、おじちゃんは。
「やだ!やだやだやだ!信じたくない、やだ!葬式行きたくない、慎ちゃん俺の空気やけん、居て当たり前やけん、やだ、やだーーーーー!」
と子供みたいに、泣いて、駄々を捏ねていた。実の子供がこんなに精神自立しているのに、友人が自立してないな、と、笑ってしまった。
「おじちゃん約束守ってよ〜。来てやってよね〜、
慎ちゃんのお葬式、おいでね〜」
軽口にお誘いした。
奥さんに無理矢理引っ張って来てもらい、約束通り、葬式で弔辞を読んでもらった。
弔辞のエピソードは、自分が小さい頃に、野球中継巨人戦を観ながら酔っ払っている父に、100回以上は聞かされた話と瓜二つだった。
昭和の時代。 巨人、ドリフ、玉子焼き。
幼少時代。
大ちゃんと慎ちゃん。
生まれて数ヶ月から幼馴染の仲良し少年たちは、長嶋さんに憧れ、学校や空き地でいつも一緒に野球の練習をした。その後家に帰っては、テレビの前で一緒にドリフを観て笑いながら、大ちゃんは勝手に慎ちゃん家の晩飯を食べていたらしい。
高校時代。
マンモス部員数の強豪校野球部に入部して、甲子園を目指した。1年の人数が多過ぎるから減らす、という理由で、2、3年の先輩達に、毎日殴られた。体格の良いの大ちゃんは10発。毎日殴られた。背の低い慎ちゃんは倍の20発。毎日殴られた。玉拾いに、洗濯物に、家に持ち帰る、先輩達のユニフォームのボタン付け。80人程いた1年は、7人にまで減ったらしい。
高校3年生。
大ちゃんはグラウンドでキャッチャーを、慎ちゃんはセカンドを守っていた。最後の夏の甲子園予選、の前の。前哨戦のような小さい大会、の数日前。慎ちゃんの父親が急逝した。慎ちゃんの親父さんの弔い合戦や、と、大ちゃんや仲間達は奮起した。そして、その小さい大会で優勝した。
見せてこい、と仲間に背中を押されて、慎ちゃんは、トロフィーを仏壇前の父親に見せた。
数日後。
最後の夏。甲子園予選2回戦で、敗戦した。小さい大会でみんな、頑張り過ぎたらしい。夢の甲子園には行けなかった。
66年間。
保育園から大学まで一緒で。家も近所で。毎日会ってて。嫁さんも紹介して。大ちゃんにとって慎ちゃんは、居るのが当たり前の、空気みたいな存在だったらしい。
参列席を見渡すと、平日の昼間、コロナ禍の中、何百人と人が参列してくれていた。
魚屋の二代目店主、商店街の会長、小学校のPTA会長、中学校のPTA会長、少年野球の監督。
人が良すぎるから、断れないから、何でも引き受けてくる父親だった。そして、よく悪い人に騙されることも多かった。
大ちゃんは、参列者など関係なく、もう死んで棺桶の中にいる、慎ちゃんだけに向かって、マイク越しに普段通り優しく喋りかけていた。あんなに葬式来たくないって、子供みたいに駄々捏ねて泣いてたのに。
「慎ちゃん。先に、向こうで、天国で。神様に頼んだら、好きな年齢の身体を選べろうけん。高校3年の年齢の身体に戻って、先に、野球の練習しよって。そのうち俺もそっち行くけんね。そのときもう一回、あの夏のリベンジしようぜ。もう一回、甲子園目指そうぜ」
…大ちゃんは、空気のような慎ちゃんの、娘のことはどれだけ知ってるんだろう。多分、大ちゃんは何にも知らない。娘が17歳から貫いた長年に渡る反抗期を知らない。でもそんなことは知らないままでいいけどさ。
大ちゃんの幼馴染の慎ちゃんは、既に向こうにいる仲間達数人と既に合流して、バットとグローブを持ってグラウンドを駆けまわっている、慎ちゃんの情景を思い描いている。
天国でも甲子園は目指せる、らしい。
高校球児のあの頃に戻って、
天国で甲子園を目指している。
今まで、父が亡くなっても泣かないと思っていた。
だから、ハンカチすら持ってなかった。
あんなに駄々捏ねて泣いていた、大ちゃんが。慎ちゃんの前では泣くのを我慢しながら、ずっと、優しく喋りかけていた。
そっか。死んだんだ。66年間ずっと一緒だった親友に今日からもう逢えないんだ。
いつか大ちゃんも天国へ行って、慎ちゃんと、野球するんだろう。お互い高校3年生の身体で再会して、夢の続きを追っかける2人の姿が、その弔辞で、頭の中で描けてしまった。
「うわーーーん、やだー、やだ、やだーーーーー!」
気付くと、声を出して、泣いていた。大ちゃんが慎ちゃんの前では全く泣かないから、代わり泣きしていた。
大ちゃん約束守ってくれてありがとう、と父が泣いているような。お父さんに甘えたかった、子供の頃の自分が乗り移ったような。駄々捏ねて、顔ぐしゃぐしゃに、大声で、大ちゃんの弔辞中に泣いていた。
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