放課後児童クラブ(学童保育所)
■ 「学童」「はまっ子」「キッズ」
娘と息子の小学校入学を控えて、放課後の「居場所」として「放課後児童クラブ(学童保育)」の利用を考えました。
現在では、横浜市内の全ての市立小学校に「放課後キッズクラブ」が設置されていますが、当時は、まだ設置されている小学校はごく少数で、入学予定の小学校は、結局、娘や息子の卒業翌年度まで「はまっ子ふれあいスクール」のままでした。
「はまっ子ふれあいスクール」というのは、横浜市独自の制度で、放課後の小学生の「遊び場」として学校施設の一部(校庭や体育館、空き教室など)を開放する事業です。一応「指導員」的なスタッフはいましたが、基本的には「放任」に近い感じです。
ものすごく「大雑把」な表現ですが、放課後の小学生を、その辺の道端(道路)だとか繁華街に放ったらかしにもできないし、かと言って「公園」なども少ないような地域も多いので、それよりは「学校で適当に遊ばせておくほうが安全・安心」という発想なんだろうと思います。
これに対して「放課後児童クラブ」は、自宅に帰っても家族が働きに出ていたりして不在、という家庭の児童向けに、家族の帰宅までの間の「生活の場」として提供される事業です。
現在は、6年生まで全学年に対応するのが原則になっていると思うのですが、当時は原則として3年生まででした。ただし「障害児」については6年生までという「特例」がありました。
横浜市では当時も、障害の有無に関わらず原則6年生までを対象にしてはいましたが、実際には5年生前後で「退所」する児童も少なくなかったと思います。
多くの区市町村では、これを「公営」(直営)で措置していますが、横浜市では「民営」です。多少の補助金は出ますが、家賃の高い都市部としては不十分で、保護者の負担も大きくなりがちです。
この「折衷案」として10年ほど前から登場したのが「放課後キッズクラブ」でした。
従来の「はまっ子ふれあいスクール」を拡充し、従前の利用層向けには17時までの「はまっ子ふれあいスクール」と同等の費用と内容のコースを用意し、「放課後児童クラブ」と同程度の内容のコースも新設。後者は19時くらいまでの利用ができるような仕組です。
基本的に「指定管理者制度」で運営されますが、小学校の施設を利用することで「家賃」的な負担が抑えられるので、放課後児童クラブよりはかなり廉価で利用できます。「学童保育」の場合は、月額で2万円前後になるようなケースも少なくありませんが「キッズ」なら数千円で済みます。
また、小学校内に開設されるので、下校後の「移動」が必要ないことも利点の一つです。
そして、これまで散在していた「民間放課後児童クラブの空白地帯」を埋める効果もありますが、この「放課後キッズクラブ」の登場により、利用者が大きく減ってしまったため、安定的な運営ができない、として廃止になった放課後児童クラブもあるようです。
また、全ての小学校の「はまっ子ふれあいスクール」が「放課後キッズクラブ」になりましたが、特別支援学校に設置されている「はまっ子ふれあいスクール」は、そのまま残っています。
現在でも、放課後児童クラブが利用できる学区は少なくないので、「キッズ」と「学童」が選択できる場合には、両者の特徴(ともにメリット・デメリットがあります)を見較べて、希望に合ったほうを選べばいいのかな、と思います。
■ いわゆる「小1の壁」
夫婦ともフルタイム勤務ですので、高学年ならいざ知らず、最初から「はまっ子ふれあいスクール」は選択肢にはなりませんでした。
そして当時は「放課後キッズクラブ」のある小学校は、まだなかったか、あっても数えるほどだったと思います。
自ずと放課後児童クラブ(学童保育)という選択になってしまいます。
学区内にある学童保育は「新規受入15人程度」とのことでしたが、ふたを開けてみると軽く30人を超える申込があったそうです。
そのため、選考のための面接をする、と言われ、行ってみたのですが、建物の雰囲気なのか何なのか、息子は何かを感じたようで、頑なに建物に入ることを拒みました。
息子は、所謂「霊感」とかがどうこう、というタイプではありません。きっと何か具体的に「嫌」なところがあったのだと思いますが、今に至るまで、それが何なのかはわかりません。
このようなことを「言葉にして伝える力」が弱いのも、「発達障害」ではよくあることかと思います。
建物に入ろうとさえしなかったため、建物そのものなのかな、とは思うのですが。
加えて、そこの学童保育の指導員さんは、ちょっと「堅苦しい」雰囲気のある人でしたし、やたらと「シュタイナー教育」とやらについて熱く語るので、何だか合わなそうだなあ、とは感じました。
本来「シュタイナー教育」は、個性を尊重・重視するものの筈で、発達障害児には適しそうなものなのですが、その理念どおりにできるのか疑問を感じる環境でした。理念は素晴らしいのですが、本当に一人ひとりに合わせられなければ、定型発達の子でもミスマッチを起こしてしまうという懸念すら感じました。
ともあれ、とても面接どころではないので、諦めて辞退することにせざるを得ませんでした。
辞退するのは仕方ないのですが、これでは、父母のどちらかが退職ないし転職するしかないかな、と覚悟しました。
これがいわゆる「小1の壁」なのだと思いました。
そんな時、駅に近い隣の学区の学童保育が、他校の児童も積極的に受け入れてくれる、と聞き付けて、相談に行ってみました。
そこの指導員さん曰く「まだ空きならありますよ。え? 発達障害? うちは、しょっちゅう自閉症とか受けてるから、大丈夫っしょ」と、かなりあっさりと受けてくれることになります。
息子も、そこの雰囲気には抵抗がないようなので、ここにお願いしよう、ということになりました。
その代わり、放課後は自分たちで路線バスに乗って通所する必要が発生しました。最初の1か月は指導員さんが小学校まで迎えに来てくれるそうですが、その後は「自力」になります。天気が悪い時や、沿線の高校の定期試験などと重なると、満員で乗れないことも少なくない路線でした。
20分に1本程度しかないバス路線ですが、運が悪いと2本、3本と続けて乗れないこともあります。大人であれば諦めて歩くのでしょうが、小学校に入ったばかりの子供にとっては、難しい問題だろうと思いました。
実は、入学予定の小学校と自宅はすぐ傍なのですが、自宅から通勤のために最寄駅まで歩く途中に、預けることになった学童保育が学区にある小学校があります。
このような場合、その小学校への「学区外通学」が認められる可能性があるのです。
しかし、既に入学予定の小学校と、息子の身体障害のための医療処置ができるような施設改造を進めてもらう話が付いていたため、それはできませんでした。
そこで、当時の勤務先に相談しました。
何とか、自宅に近い勤務先への配置ができないか、と動いてくれたようで、最寄駅の近くの勤務先に異動することができました。
異動先には、他にもシングルマザーだとか、持病のある再雇用嘱託さんとかもいて、それぞれが融通しあいながら「ワークライフバランス」を取っているような職場でしたので、筆者の「環境」にも理解がありました。
相談の上、昼休みを下校時刻に合わせてずらさせてもらい、小学校近くのバス停まで迎えに行き、一緒にバスに乗って学童へ、そこから勤務先に戻る、という流れで対応することができるようになりましたし、徐々に「学童に近いバス停への迎え」に切替えて慣らし、小1の年末には完全に「自立」できました。
念のため、小学校の許可をもらって「キッズケータイ」を持たせることにしました。何かあっても、小学校と学童保育の間ならば、こちらが歩いても20分以内にはたどり着ける範囲内でした。
また、他にも同じ小学校から(学区内の学童からあふれてしまって)その学童に通うことになってしまった1年生が何人かいたので、それも良かったのかも知れません。
その子たちにとっても、指導員さんの「迎え」がなくなってからもしばらくは同伴する大人がいる、というメリットがあったと思いますが、3年生までには皆、退所してしまいました。
小学校近くのバス停にはベンチがあり、そこで勤務先の近くで買った小さな弁当(地域の作業所が販売に来ていたものです)を食べながら待つ、というのが「定番」になっていました。
水曜日だけは下校時刻が違ったため、一つ先のバス停の近くにあるお寿司屋さんの「ランチ」にして、少しパターンにメリハリを付けてみたりしました。
このお寿司屋さんのご夫婦が、毎日バスを待っている小学生たちを見て知っており、うちの子たちだと聞いてからは、色々と気に懸けてくれていたようです。
最近になって、お寿司屋さんの御主人が引退されたのか、店を畳まれてしまいましたが、意外と地域・近隣にも、子供を見守る「目」があったりするものだと感じました。
■ 「分割」直後の大規模学童
その学童保育が「対象」にしている学区の小学校は、児童数が1,000人を超える、横浜市内でも屈指のいわゆる「マンモス校」でした。
自ずと学童保育も大規模になります。最大で児童数が100人に迫っていた時期もありました。
そのため最近(娘や息子が入学・入所する前年)隣接する建物も借りて二つのクラブに「分割」したばかりだ、とのことでした。
この学童保育の建物の「大家」さんは、同じ敷地で内科や小児科のクリニックを開設しているお医者さんですが、とても学童保育に対する理解のある人で、追加で借りた「隣接の建物」が老朽化していたため、それを取り壊して新しい建物(実は「接道要件」などでかなり難儀な「新築」でしたが)に建て替え、更に元々は平屋だったものを二階建てにして、学童を二つとも入れてしまう(家賃も相場よりかなりディスカウントしていました)という篤志家です。
学童でも「みんな、ワクチンはここで受けよう!」などと言っていました。実際、娘と息子のインフルエンザワクチンも、ここで何度かお願いしています。
名目上(見かけ上も)二つの学童保育に分かれてはいましたが、実際の活動については、ほぼ一体として運営されていました。
父母会も組織的には別になってはいましたが、定例会などは合同で開いていて、会計も分けてはいますが、出費に関しては在籍児童数で「按分」するような運用でした。
ですが、建物(改築後はフロア)が分かれていることから、一方の建物では賑やかに遊び、もう一方の建物では比較的静かに過ごす、という棲み分けになっていて、その上で割と自由にお互いを行き来できました。
その中で、名目上の「所属」ではありますが、その静かなほう(通称「第二」学童)に入る形になったのも、賑やかな環境が苦手だった息子には良かったのかも知れません。
これと通じることが、中学進学後の「放課後等デイサービス」を選ぶ際のポイントとして浮上するのですが、それはそちらの項で触れることにしようと思います。
本来は単独の小学校区を対象とする放課後児童クラブなのですが、知る限りで、最大時には6つの小学校の児童が利用していました。それでいて、6学年にわたる多くの子供達が利用するので、児童も父母も、幅広い交流が生まれたと思います。
ちなみに、本来の学区の学童は20年ほど前の「分校」の経緯で2校の学区を対象にしていました。そちらであれば「保育園」の実質的なエリアともほぼ重なりますし、後に入学する中学校の学区の大半にも当たります。
もしそちらに通っていたとすれば、友人関係はより強くなったかも知れませんが、交友範囲はここまで広くはなっていなかったでしょう。
勤務先がすぐ近くになったこともあり、仕事や昼食などでその辺に出ると、たまたま出会った小学生たちから次々に声をかけられるため、同僚からは「どうしてこいつは子供達にまでこんなに有名人なんだ?」と訝しがられることもありました。
ちなみに、この学童保育の在籍児童の中には、「地元の学童の入所抽選で一人だけ落選した」ために学区外から通うことになった、という姉妹もいました。
その子の親は、実は「衆議院議員」なのですが、国会議員なのに「落選」して、というのもいろんな意味で微妙です。でも、そういうところに人間味を感じるような気さくな方ですが。
他にも「東大卒業してプロ野球選手になった」というOBがいたり、と、とても幅広い人脈のある学童保育です。
また、これはこの学童保育に限ったことではありませんが、1年生から6年生までが一緒に「生活」する場であるため、自然と「上級生が下級生の面倒を見る」という意識が育ちます。
学校の特別支援学級などにも言えることですが、このような「複数学年」構成は、児童の成長にとって、とても意味のある環境なのではないかと感じます。
■ 恒例行事
この学童保育では夏休みに、指導員さんたちの長時間労働を軽減するため、父母が交代で「一日指導員」に入ることになっています。それはそれで大変ではありますが、学童保育での子供達の様子を知ることができますし、父母同士の交流も生まれます。
特に、夏休みなどの長期休暇の時期は、子供達も朝から晩まで学童保育にいることになるため、その「過ごし方」を色々と考えたり工夫したりすることになります。
週二回は、近くにある公園プールに(大人数のため一度に行くと収拾がつかないので、高学年と低学年に分けて)行きましたし、その他にも小学校の校庭を借りて遊んだり、川沿いの並木に「蝉取り」に行ったり、毎週水曜日はみんなで「昼ごはん」を作ったり、と、盛沢山でした。
今年度の夏休みから、学童保育や「キッズ」を対象に「昼食」の提供事業(説明をも見ると、かつての「ハマ弁」からリニューアルした「中学校給食」の焼き直しみたいですが)も始まるようですが、この当時はそんなものは影も形もありませんでした。
特に、学童保育の裏の竹やぶから切り出した竹を使った「流しソーメン」(こういうのが大好きな「お父さん」がとても多かったです)は大いに盛り上がる「夏休み最後の恒例行事」でした。
なお、その「竹」は、春先の時期にきちんと切り出しておかないと、学童の建物の屋根に突き刺さりかねない、という「厄介者」でしたので、この「竹刈り」(タケノコも刈っていましたが)も、父母会役員の「恒例行事」の一つでした。
その他、5月には「新歓」を兼ねた「地引網」を三浦海岸でやったりだとか、夏休みには「合宿」(全学年)を行い(例年「足柄ふれあいの村」でしたので)その帰り道には必ず、南足柄にある「ビール工場」を見学(現在は工場自体が「閉鎖」になってしまったようです)という「父母会待望の恒例行事」を組み入れたり、秋には「高学年合宿」などの行事もありました。
自分は、ほぼ6年間ずっと行事担当の役員をして(させられて)いましたので、色々と苦労もありましたが、貴重な経験ができたと思っています。
また、3月には小学校の体育館を借りて「卒所式」をしていました。各学年の「進級式」と「お楽しみ会」的なものも兼ねています。
特に卒業する6年生に向けての「送辞」には一人ひとり、色々と趣向を凝らした内容になっていましたし、卒業証書に当たる「友達の証」にも、6年間の思い出をぎゅっと詰め込んだ、指導員さん渾身の文章が入っていました。
この「卒所式」では、BGMなど色々と音響を使うのですが、これも父母会の行事役員の仕事の一つでした。
学童保育に入った頃は、近所にいる音響関係の仕事をしているOBの親から「機材」を借りたりしていましたが、小学校の体育館だったら、ある程度の設備はあるはず、と、ある年から学校に借りる形式に変更しました。
というのも、筆者は中学・高校と「放送部」にいましたし、実はこの小学校、たまたま仕事の関係で参加するある「イベント」の会場にもなっているのです。
そのため体育館内の放送室についても、ある程度は知っていました。そうでなくても、学校の体育館の放送設備など、全国どこに行っても似たようなものです。
なので「放送室の鍵さえ貸してくれれば、あとは自力で原状回復までできます」ということになったのです(後任の行事役員にも引き継ぎました)。
■ 障害への対応
自宅や小学校からは、少し離れた学童保育を利用することになりましたが、結果として、これで良かったと思っています。
児童数は桁外れに多い学童保育でしたが、指導員さんが、かなりきめ細かく見てくれていました。
特にこの学童保育は、発達障害のある児童に対する経験が豊富で、息子だけではなく、各校(と書くだけ数多くの小学校)の特別支援学級に在籍している児童にも適切に対応していましたし、それが「特別扱い」にならない(少なくとも他児にそう受け取られない)ような配慮もしていたと思います。
その中には、保育園の項でも出てきた「A2」+(恐らく)ADHDの女の子もいました。
各種の行事や「一日指導員」をしている時に気付いたのですが、特別支援学級にいる子に限らず「境界域」やいわゆる「グレーゾーン」と思われる子も少なからずいました。
そういう子たちを含めて、分割した2つの学童を合わせて80人は在籍していた児童について、一人ひとりの特性・特徴を捕えながら、適切な対応を取ってくれていたと思います。
余談ですが、その「一日指導員」に入っていたある時、「グレーゾーン」の低学年の男の子がプール公園まで歩いて移動する時に、どうしても「先頭」に行きたがることがありました。
「見守り」上それでは困ってしまうので、筆者はその子に「本当の『隊長』は先頭を行かない、全体を見なければダメだから。先頭は『副隊長』に任せるんだよ」と(昔どこかで読んだ気がすることを)言ってみました。
すると「俺は『○○兄(にい)』(息子のこと)の父ちゃんと一番後ろを行く!」と、素直に最後尾に来たのです。
「先頭で引っ張るのがリーダー」という「こだわり」があるのではないか、と推察して、子供にも理解しやすい「対案」を示すことで「こだわり」から解放した例(もっとも、今度は「最後尾」へのこだわりを生んだ可能性もありますが、これで「隊列」から離れずについて行く、という行動を促すとも考えます)として記憶に残っています。
筆者自身も含め、この学童保育の父母や指導員には、こうしたノウハウが蓄積されていたように思います。
高学年になってくると、娘も息子もたまに、ちょっと学童保育に行きたくないような素振りを見せたことはありましたが、基本的に嫌な場所ではなかったことは確かです。
これは、別に息子たちに限った話ではなく、どの子にも見られる現象で、自分でやりたいことがある、とか(高学年になると途中退所の子も増えてくるので)楽しく遊べる相手がいない(周りが低学年の子ばかりになる)など、様々な要因が考えられます。
障害の特性や程度にもよるとは思いますが、放課後児童クラブ(学童保育)だけではなく「放課後キッズクラブ」などにも、ある程度の障害には対応できる施設もある可能性があります。
もっともこれも、運営している運営委員会や指定管理者次第、という側面があります。
ノウハウを持っていそうなベテラン指導員のいる学童保育や、社会福祉法人などが指定管理者になっている「キッズ」とかならば、可能性がありそうに思います。
とは言え、「キッズ」を学区外から利用することは難しいでしょうし、利用できる学童保育が近隣にあるかどうかも関わってきます。
放課後の「居場所」を考えるに当たっては、やはり色々と情報収集をして、子供に合ったものを探すしかないでしょう。
例えば、その(小学校入学などの)タイミングで転居(マイホーム購入とか)を考えている、などという場合には、放課後に利用する施設で住む場所を選ぶ、ということもできると思います。
息子の時代には、まだ選択肢が少な過ぎて候補にもなりませんでしたが、場合によっては、「放課後等デイサービス(放デイ)」の事業所を利用することも考えられます。
当時は、主要駅の周辺でも「訪デイ空白地帯」が珍しくなく、横浜市内(○○区内のレベルではありません)でも数えるほどしかありませんでしたが、今では最寄駅から自宅までの間だけでも10か所以上の事業所があるような状況です。
後に息子が利用することになる放デイの事業所では行っていませんが、多くの放デイ事業所では、学校への「迎え」や自宅までの「送り」も対応していたりします。
ただし、事業所によって、環境、規模、指導員の資質、活動内容など、かなり多様だと思われますので、やはりきちんと「見学」や「相談」をしたうえで選んだほうがいいとは思います。
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