「生涯現役」明と暗の闘い!
(1) じじいは ゆく
生まれた時から貧乏農家のランプ生活で、トイレはボットン。
父親はアルコール中毒で、びくびくとする母親を目の当たりにする。
中学1年の夏のおわりからか。親元を離れ、兄貴と8畳一間のアパートで暮らした。
定時制高校に通うのがやっとだった。自分でなんとかするしかない人生で、でも耐えられないことばっかりで、非行に走った。高校は、卒業に6年もかかってしまった。まがりなりにも21歳で高校を卒業して、当時の夜学生には高給のタクシー会社に就職した。
当時の夢は学校の教師。大学入学資金を稼ぐために、働いた。一年間のつもりが、転職しながらも結果的に大学入学後も2年以上乗務員として働いた。
人生は、そううまくいかない。
でも、その中で開拓していくのが人生だ。
なんとしてでも生きていく活力、地を這ってでも生き抜く根性が「じじい」にはあった。
病気と経済的な理由から大学中退を余儀なくされ、学校の教師にはなれなかったけど、独立開業した。電気もガスも水道も通っていない貧乏農家出身が、後に会社の社長! 結婚もして、3人の子供にも恵まれた!
(私みたいな人は沢山いると思うが・・)
人生山あり谷あり。(笑)
起業から約30年後の2009年3月31日(忘れもしない)会社倒産!
倒産後、またタクシードライバーとして就職。
昼夜逆転の生活!当時、大腸がん(2年前にこぶし大の切除手術)を患っていた者としてはきつかった。 すべては、家族のため。
はぶりのよかった大学の頃の当時とは違って、タクシードライバーの賃金には驚いた。
夜中には酔っぱらった客が助手席に足をあげ、気分良く命令し、
時には吐しゃをする……
イギリスでは、タクシー乗務員はハイレベルな試験をクリアーして尊敬されているらしい。
大学生当時のあの頃も、酔っ払いの客には頭を抱えた。「運ちゃん」とか「くもすけ」とか呼ばれて、殆どは屋台のラーメン屋へ直行。客が寝込まないように「常に話しかける」「適度にブレーキ・ハンドル操作」で寝込み対策。トラブルには土下座で対応したこともあった。
カーナビのない当時は、道を覚えるのに一苦労した。これが、イギリスでタクシードライバーが厚遇で尊敬される理由のひとつである。インバウンド(訪日観光客)観光立国を更に加速する日本!
(2) 運転手は ぼくだ
コロナ感染症の影響は様々な業界・業種に影響を与えた。
公共交通機関、移動手段も変化した。その影響で需要と供給のバランスも崩れ、廃業・倒産、失業・転職と崩壊する。危機管理の対応対策の厳しい現実を味わった。その結果、コロナ感染症開け後の人手不足の要因に拍車がかかってしまった。
今、国内観光客の増加とともに円安の影響も加わり、海外からの観光客が増加している。移動手段である飛行機・鉄道・バス・タクシー・レンタカー等、さらに、インバウンドの増加(訪日観光客)だ。海外客のトランクケースを例に挙げても、巨大で数も多い。実際に現場での体験者である私は声を大に「あなたも経験してから語りなさい」と叫びたい。
特に、政治家、行政、交通関係に関わる経営者の人達である。
そもそも、マナーから問題だ!
「車内での雑音的なる会話」「信号無視で走れ」「営業車内での飲食」 まぁ、食事に関しては許せても、後始末が大変になる程後部座席が食べかす、においであと処理が大変である。
長距離客に多く、観光で気分も高揚するのであろうが・・・
観光立国だからでは済まされない課題が山積している。
私自身、乗務員退職理由の一つでもある。トランクケースの積載で腰を痛めて労災で入院した。労働者管理、人材確保のためにも検討すべき課題であるように感じる。
私も経営者時代、仕事等で海外7ケ国・地域に訪問したが、日本人のマナーは最高だ。○○国は想像できる。(笑)
日本のタクシーの始まりは、「1912年」京都が発祥の地と聞いた事がある。「くるま」自体も珍しい時代、タクシー会社は輝いていた。
第1次大戦、第2次世界大戦と世界、日本の人々の混乱・苦境、特に敗戦後の混乱期は ピンチとチャンスが交差していたのだ。
戦後の1950年代「神風タクシー」粗暴運転・乗車拒否等、そのため国は「あんしん・あんぜん」等を担保すべく、個タク(個人タクシー)二種免許制を定めた。
二種免許、実は「わたくし」7度目で合格できた「自称プロ」である。
16歳で軽自動車運転免許取得、当時は16歳から取得対象。
高校二年生で軽自動車運転免許、自動二輪免許を取得。
21時10分の授業終わり、
夜な夜なバイクを走らせていた。(大通公園が多かった)
職場では、最年少の私は転職しても常に「いじめ」の対象者だった。自分の不遇をバイクに向けていた。
時にはパトカーと遊んだこともあった。(遊んで頂いた。笑)
その後、二回目の高校二年次には軽自動車と併用して運転。初めての四輪車はスバル360だった。「カブト虫」と呼ばれた中古車で藻岩山道をレースコース代わりに走り、急カーブで転倒、支笏湖へドライブ中、パンク、スペヤータイヤが無く、三輪で札幌に戻って来た事など思い出の多い車の1台。当時自殺を考えていた私は、最後は中標津町にいた母親へ一目会いに<死の旅>へ向かうも会えず、美幌峠で車輪、エンジンも固まり、私の代わりに車が廃車になった。
運転歴50年以上ではあるが、運転自体は好きではない。
生活の為、{運転する}が正直な答えだ。ともあれ、政治(法律)は生活に影響することを実感する。少なくとも、二種免許制導入で20年後の私は6回の不合格で時間とお金を「ロス」したのだった(笑)
(3) お客様は神様です!?
この精神は大切だ。しかし、過度な「神様」はいかがなものか。
初回も記載したが、「いらっしゃいませ」「・・・・」「どちらまで」「・・・・」「まっすぐ行け・・・」「はい」「左だ、左」
またある客は「急いでください」まではお嬢様ですが、信号待ちで止まると「チ、おそいわね」と舌打ちする。
酔っ払い・泥酔者は更に最悪である。助手席に足をあげ「運ちゃん」で始まり、「どこ走っている!」など、乗車時に道順を確認していても豹変される。
「辞めよう」・・・現役時代、何百万回思ったことか!
会社倒産まで共に奮闘してくれた末弟も、バスとタクシーの運転手は
「もう嫌だ」と、わたしと同意見である。昨今のタクシー業界・バス業界の高齢化、人手不足の要因には様々な問題があるが・・・
上記の問題は「課題解決」の優先順位は高いと思うのは私と弟だけではない。 バスの減便「深刻な人員不足」のニュースもあった。
弟のところにも復帰の要望の電話が入ったそうだ。
「2024年問題」
①INSネット問題
②時間外労働問題等、公共交通・運輸業界ばかりではない。
韓国でのインターン生医師の「抵抗問題」、原因が日本に直結することではないが、他国のできごとでは済まされない出来事と思う。前回、記載した「コロナ感染症」の影響は様々な業界・業績に影響を与えた。
同時に、現在の人手不足の原因のひとつである「コロナ」「感染症」の恐ろしさと共に、3K「きつい、汚い、危険」に加え新3Kと言われる。
「帰れない、厳しい、給与が安い」の6K職業は更に労働者の復帰がなされず人手不足の加速が顕著に表れている。
1・人手不足 人口減少
(地方の過疎化対策)
2・ソフト&ハード
(アナログとデジタル両輪活用)
3・環境問題 温暖化対策
課題解決の順番は関係ないが、これからの日本、世界を「産・学・官」など本腰を入れて、全世代型で企画、運営、成長、実績を実現しなければならない切実な「問題」といえるだろう。
現在、人手不足の一助としての技能実習生受け入れの問題も3K・6Kの労働者の補足的な思考をすること自体、短絡的で日本の人権・産業の衰退等、国家的危険な状態へ向かうと危惧している。
私が経験したタクシー(バス)業界を考えても、単にいずれは自動化、移動手段は変わるので「喉元過ぎる」まで小手先の対策で乗り切ろうと軽視しているのであれは将来、必ず何等かの形で報復されるだろう。
ハードとソフトのバランス、「A Iとの関係」など話題はつきないが、やはり「人と人」人間の「ソフト面」をどう成長へと意識改革させて行くことが大切だと思います。対面販売等で「お客様」を持ち上げる事でバランスが崩れ、過度の「おもてなし」が客を傲慢へと導く事を認識し、理解を求め策、制度・制定を考えていくべきではないのか。
ともあれ、「人間関係」は無人島でない限り・・・存在する。
(4) 28回の転職
学生時代は若いこともあり、運転が嫌いな私でも馬力がありました。
21時10分の授業終了後、職員駐車場からススキノ方面へ向かう途中でお客を拾うこともありましたが、ほとんどは屋台のラーメン屋へ直行です。
麺をすすっていると必ず「○○方面、頼むよ」と万札を渡された事もしばしばありました。当然、チップも入ります。しかし、悩ましい事も多数発生しました。
運転手と客、コミニケションの能力強化、車内は密室、特に酔っ払い、泥酔者への対応です。今はカーナビが発達していまが、私は今でも瞬時に目的地コースのパターン、時間帯、近距離を判断するよう努力しています。
(枝道、斜路を含め)
現役時代、お客さんと会話することで更に学ぶ事も出来ました。
人それぞれ個性があるように「こんなコース走る」と思う客が意外に多いのです。どちらかと言うと、当時は高齢者、女性客は国道、道道、市道など公道を指定してくれます。 (今は違うようですが……)
経済・技術・環境の変化、進化のスピード発展で「人間」は顕著に恩恵を享受しております。一方で、あらゆる分野での格差の拡大であります。春闘で大企業の満額回答の報道を耳にしますが、中小・零細企業の賃上げは日本の経済、景気に影響を及ぼすので大変に気になると共に期待をしております。
日本の労働者(約6900万人)の働き方も近年は正社員、派遣社員、フリーランス、フリーターなど様々ですが、日本の人口減少、少子高齢化、労働者減少が眼前に迫っているのです。(日本人の労働人口5千万台)、地方の過疎化対策や「まちづくり・ひとの流れ・しごと創成」など「官・労・使・戦略会議」など地方(自治体)を含めて拡大会議をする。
そして、なによりも「行動力」が大事だとおもいます。
「特区」「実証実験」など、早く実行・行動を起こしていただきたいと願っているのは私だけではないと思います。そして「世界の見本」「若者の未来・希望」となる国づくりを目指していただきたいと思うのです。
経済・技術等の発展と賃金水準(生活)の向上を車の両輪のように駆動出来るよう「課題」に「官・民」との連携強化をお願いします。今年もお隣の国「中国」で全人代大会(約3000人の代表)が開催され、経済の立て直し「5%成長」を掲げて終了しました。
マスコミは様々な課題(国家秘密保護法等)を解説していましたが、私は 習近平政権、社会主義国家の若者の就職難と共に「若者の働き方」意識の変化に注目を致しました。
今は就職難で耐えている若者も、日本の3K「きつい・汚い・危険」に加え、新3Kと言われる「帰れない・厳しい・給与が安い」の6Kに類似し、日本と同様、特に「エッセンシャルワーカー」の労働減少問題は少子高齢化が進むほど深刻化すると思うのです。
(強制労働の分配化の可能性もありますが……)
私は表題が示すように、28回の転職をしてきました。過去には長続きしなく、転職するたびに自分の「不甲斐なさ」を感じたものです。
就職先が決まらず、5枚、6枚と履歴書作成時は特に「短気で持続性」の ない自分を責めたものでした。終身雇用者を羨んだ事も事実であります。
「会社を辞めた人を【脱落者】扱いする社会から堂々とやり直しができる【明るい転職】社会を作りたい」と元求人情報誌編集長の理念・行動が今のビジネス社会に反映されてきていることも事実ではありますが、もっと、 多様性・スキルアップと共にフリーランス、フリーターなど「安心・安全」「福利厚生」等【働き方改革】の旗を踏み込んだ課題に官・民で智慧を出し実現することを切望します。特に、政治にはリーダーシップと実現力を見せていただきたいと思います。
実現すれば、私の28回を優に超す人々が多数表れると思います。
すでにいるかな……
(5) 経営への一歩
タクシー乗務員として、1970年代はチップで食費がまかなえるほど日銭が入ってきました。
当時、札幌の初乗り料金は200円台。現在は670円です。
これだけ乗車料金が上昇しているのに、労働賃金が上がっていない。失われた30年とも言われていますが、最悪の労働賃金水準の低下です。
当時の私の給与は手取り十数万です。物価などから考えても、懲罰的な給与の減額であります。「何故……」と、疑問だらけでした。
結論は「2000年代の構造改革」です。
タクシー業界も需要と供給のバランスの崩れが主な理由でこんな状態になってしまったのです。 (コロナ開けの現在は人手不足の影響あり)
「政治の責任は大きい」
政治は国家の意思決定機関である主権をもとに、共同体の領土や資源を管理し、それに属する構成員間、あるいは他共同体との利害を調整して社会全体を統合する行為、もしくは作用全般を示します。
つまり「憲法・外交・国防・安全・基本的人権・市場・福祉・教育・選挙」など、私達の日常生活に深くかかわっていることを再認識するべきでしょう。
政治家、霞が関(中央官庁)が無策だとは言いません。むしろ、素晴らしい人材集団であると思います。ただ、企画・立案は優れていますが行動力・ 即効性は疑問です。
「即決・即断」……確かに問題等、検討されるべき問題も山積ですが、民間企業では「即死の課題」も実行に数年経っている状況です。
「失われた30年」…… 私が会社経営で奮闘していた時期でもあります。
経営者時代の体験を後述しまが、世界そして日本の経済・技術・社会環境の進化・衰退等、時代と共に改革など「経営者の能力アップ」についていけない経営陣は「譲渡・閉鎖等・退陣」など、決断が必要であるといわれていす。
会社の閉鎖方法も「倒産・特別倒産・廃業・私的整理・銀行取引停止処分・放置倒産」など様々ですが、特にオーナー経営者の「早期退場」の決断が種々の明暗を分ける。中小・零細企業の経営者は24時間、会社の経営に全責任が課せられるのです。また、能力アップは勿論ですが、気力・体力が 非常に重要であると思います。
「体力」… 私が倒産2年前の「癌の手術」そして闘病生活で体験して実感しました。 後継者の問題も含めて、後年、決断の時期などを思い知らされました。政府・経済産業省「中小企業庁」への願望特に中小・零細企業の経営者が「退陣の決断」をなかなかできない理由のひとつに「経営者の債務補償」の問題があります。それにより、「経営者から即ホームレス」へと崩壊する現実です。
無論、会社を経営する全責任がありますが、再チャレンジの道へと、もう少し緩和・見直しをお願いしたいのです。
「労働者の失業保険」や転職へのスキルアップ「研修制度」などの補助までは必要ありませんが、例えば、経営者の個人補償の保険制度(保障協会ではない民間保険)また、経営者以外の個人の連帯保証人の規制など「法・制度の改革」として検討をお願いしたいと思います。
確かに、現在も再チャレンジ支援制度はありますが、ハードルが高くほとんど機能していません。
経営者としての能力アップでチャンスを与えることが必要でしょう。
また、一度「退場」となった人でも経営能力(ノウハウ)の強化で新たな ビジネス雇用の創生・社会への貢献など、労使共々のスキルアップで更なる飛躍の経済・技術を創りだせるようにする。それが世界経済を牽引する一因となり、原動力となることを願いたいす。
(6) 「オヤカク」
就職シーズンも過ぎ、今は、多くの新卒採用メンバーも新出発をされていることと思います。冒頭のオヤカク内定メンバーも、自身と葛藤しながら奮闘していることでしょう。
そもそもオヤカクとは、就活(就職活動)内定時にする親への内定確認の ことをいいます。最終内定後、親からの反対で本人が辞退する事態を防ぐ ため、企業側が取った作戦です。
特にコロナ開けの現在、売り手市場が続いているようです。
就活生のアンケートでは「就職活動中、親に相談」が60%を超えていたとの結果もでていました。私は羨ましく思います。相談する親がいる……私は中学卒業後の進学・進路すら相談できませんでした。寂しいものです。
唯一の相談役は夜間高校卒業者の兄でした。中学生、3校目の担任の先生からは市立の全日制高校を進められたのですが、結局クラスから2名の定時制高校へ進学しました。当時の全校、中学3年生は340名くらいだったと思います。そのうち10数名は定時制への進学でした。「家族の絆」……古めかしい言葉のようですが、子供の頃を思い出します。
酒乱の父親を思うとゾッとするほど家族の縦社会がありましたが、生活の為のルールがそこにはありました。
八人兄弟の四男坊(上二人は他界)就学前までは冬用のマキ集めと補助作業ですが、小学生になるとランプ掃除の担当が回ってきました。高学年に成るにつれてマキ切り・畑仕事と役割が変わっていきます。責任の度合いが上がっていくのです。別な意味で、体力・能力に応じて責任分担しているのです。幼い弟達もやはりマキ拾いから。成長した分、体力の無い弟を守ることが自然でした。
我が家の崩壊の原因……父の酒乱と異常な縦社会家族、つまり「家庭・民衆主義」の欠落でした。これがあれば、人間としての生き方を学ぶ……IT的に言うと「プラットフォーム」ができあがったと思います。「人間は自分一人で生まれてくることはできない。また、たった一人で一人前の人間になれるものでもない。当然のことながら、家族のなかで生まれ、家族のなかで育ち、やがて一個の人間として成長していく。夫婦も親も、兄弟も、目に見えぬ心の絆で結ばれている。これこそ、【人間を創りゆく】過程での不可欠の土壌といえよう」と、とある著名作家が語っていました。
近年、コロナ感染症・大震災等で命の大切さ「生命の尊厳」「危機管理」の重要性を改めて痛感したとおもいます。
そして、課題と共に体験により、家族の大切さ「家族の絆」が深まったと思うのです。 「オヤカク」……親離れ、子離れ、自立出来ない幼稚な家庭と語る一方、友達感覚で相談する。
まさに現代に必要な「民主主義の家族」ではないでしょうか。
昔からの言葉にある「老いては子に従え」……高齢者が子供に相談すること。これらの意識が「オレオレ詐欺」などの犯罪からの防衛となるでしょう。 同居家族は「ダサイ」の意識改革で、日本社会の少子高齢化の変革に繋がるかもしれません。
ともあれ、孤立は一時的には効果がありましたが、私にとっては孤独な時間が長いほど、いま考えても全ての面でマイナスに働いた事を痛感しています。
やはり、勇気を出して自分を孤立させないことが必要ではないでしょうか。
(7) 個人&法人
起業する人にとって、誰でも悩む問題であると思います。
私が起業を目指した頃は、有限会社300万・株式会社1000万以上の資本金が必要でした。
現在は「一円起業」が可能なため、チャレンジする人も多いでしょう。しかし、福利厚生等を考慮するとそれなりの運転資金が必要と思われます。
私は1980年の転職24回目で、個人として独立開業しました。前職で貯めたわずかな資金と人脈を頼りに、組んだローンの車で、軽自動車運送業を始めたのです。軽運送業は許可制ではなく、届出制であることも私を後押しました。人脈を頼りに開業したものの、計画どおりにはいきませんでした「衣・食・住」の劣悪は慣れているつもりでしたが、その想像異常に大変でありました。 独り身であったことがせめてもの救いであります。
当時はあまり主流ではなかった宅配便の業務にも手を広げました。
当時はお盆・年末以外はまともな数量は確保できない極端な物流状況でした。現在の宅配業界を考えるとネット販売と共に時代の変化を実感します。「2024年問題」
トラックドライバーの時間外労働の制限問題は物流業界に様々な影響が生じるといわれています。
荷主の金銭的負担(コスト増)の課題、物流業界経営者側の受注価格などの思い切った経営改革、労働者側、現役ドライバーの時間外労働減による収入の減少の問題をどう解決するかであります。
そもそも基本給が低く時間外勤務で給与が設定されている現状をどう解決するか。私が危惧するひとつに、正社員からの請負業・委託業務契約者への増加があります。また、副業ドライバーの増加も考えられます。
その一つとして、軽自動車貨物運送業です。宅配の仕事量は今後も増大するでしょう。
また、ドローン配送・自動化配送も進化するでしょうが、すぐに現状は変えられません。
結局はドライバーの待遇改善、ベースアップを「荷主・労・使」共に課題解決に取り組んでいただきたいと思います。それが、委託、副業を含めて過剰労働解決に繋がるひとつの提案です。
荷主のコスト問題など、最終的には私達消費者の意識改革と理解が必要でしょう。40数年前の12月、宅配物が多く、早朝から準備して配達先へ21時まで配送し、センターへ未配達分の返却・整理等で帰宅は深夜の繰り返し。帰宅後、作業着のまま4時間の睡眠が当たり前の状況でした。
配達で一番困ったことは、不在者宅への対応と宅配品の処理でした。早朝、最終宅配宅コース別に積み込むため2・3軒と不在が増えるたびに助手席など区分けして夕方以降、再配達へ向かう。
そこで「不在」の場合は不在者票を入れるのです。
(当時は隣人が預かってくれた事もありましたが)
翌日の時間指定で、コース外の時間ロスは当たり前。現在は日時指定が多いようですが、指定の少ない時代、「長所・短所」が在りました(笑)
「2024年問題」 トラックドライバーや運送会社の収入減など、
対応が大切です。
単に法改正で解決したと放置はされないと思いますが、
「消費者・荷主(発注社)・物流業界・ドライバー」と政府・行政の課題の問題意識の共有が必要でしょう。
(8) 出 発!
個人開業から3年後、様々な問題もありましたが、定期チャーター便も獲得し、車両4台・従業員共に5名体制で法人組織へと発展することができました。
今では笑い話ですが、従業員の一人が双子の兄の免許証を使って配送業務を行い、違反で免停になるまで分からなかったという身辺調査も甘く、40数年前とはいえ管理体制のずさんな経営者でありました。(笑)
開業当時は売り上げが500万にも満たない時代でも、友人に「億の売上」を達成すると豪語してはよく笑われたものです。
「拡大!」いけ いけ ムードの時こそ、要注意!
弁当チェーン(フランチャイズ)の話が舞い込んできました。
畑違いでノウハウもない業種です。しかし、拡大の意識と信頼できる先輩がチェーン店北海道本部長の勧めなので結論を出しました。勿論、事業計画、資金調達も約半年かけての計画でした。出店場所、客のリサーチ、客単価など条件は整ったのですが、資金調達が難航。一旦はあきらめたのですが、「チェーン本部が応援」することで開店へと進みました。
それが、経営者としての甘さを思い知らされる「経営の勉強」になったのです。
結論は、フランチャイズ本社の決済・了解もなく資金はショート。銀行外からの借り入れがもとで、本業の軽運送業まで揺らいでいきました。
ある著書に緊急事態になると、トップの決断は二通りに分かれる。
重要な問題だからこそ部下や仲間の意見を聞き、皆で決める。一方、情報を集め検討をして最後は孤独だが決断する。
二択のうち危機の時に強いリーダーは後者であると語っていました。
零細企業のトップ程、責任と「即断即決」が要求されるのです。私は継続を決意しました。
経費節減のため、運送業の事務所を一時閉鎖、運転手には直行直帰、事務所メンバーは弁当店へ出向してもらい全員に現場に入ってもらったのです。
弁当店の現金仕入は続きましたが、従業員7人の給与と店の維持、支払いは守死しました。
闘争は続き、私自身は開業当初の生活状態であったものの、責任感などの モチベーションはむしろ上がったのです。
最終的には店を手放し、債務整理で縮小となりましたが、ピンチがチャンスとなりました。チャーター便に入っていた業者の社長から、
「機械を譲るので、うちの下請けをお願いしたい」との要請がきたのです。それも、機械代金は月々の支払での相殺でいいという想像を絶せるドラマでした。
当時、その会社への派遣員は末弟でした。その彼に機械の操作技術を習得してもらい、素人軍団でチャレンジしたのです。一部定期の軽運送業務を続行し、みんな運転手から工場要員に転職してもらえました。
同時に工場として使用できるビルも好条件で借りることができたのです。
借り入れ先である信用組合の支店長の実家ビル1階が空いていたのでした。この時ばかりは、チャレンジ精神が運も味方にできたのです。
その後もいろいろありましたが、ピンチは挑戦でチャンスに変える事を実体験をすることが出来ました。
(9) 再 生
事業・転職の決断で生き残った零細企業の私達。
運転手から機械工に変身したのです。その業種とは・・・
コンピューターのフォーム用紙の印刷業です。
(プリンターで使われる連続用紙)
1980年代、ビジネスフォームの絶頂期でもありました。
人々の生活を一変させたコンピューターの一連です。その業界の
一部に参加することとなりました。技術習得の弟から、私達素人軍団は学び、商品化へとチャレンジするも、なかなか上手くいかない日々が続き従業員が帰宅後、弟と泊まり込みで機械を動かしました。繊細な技術の取得と共に、迫る納期との闘いです。
また、早々の売上確保が必要の闘いでもありました。人件費・固定費・仕入先・諸経費・相殺の機械代金、更に弁当チェーン店を中心の負債を裁判所に減免救済で和解した12件の一回でも支払が滞るようであれば全額即返済が待ち受ける。不履行にはできないプレッシャーと闘い続けたのです。
(返済額、月495、000円)「決してあきらめない」
彼らは始めから特別な才能に恵まれていたわけではない。むしろ数多くの失敗を積み重ねてきた人たちだった。しかし、苦難や逆境に対していつも逃げることなく真正面から向き合うことで、新たなるステップにつながる感性や嗅覚を磨き、結果として大輪の花を咲かせることができたのである。
様々な業種の経営者の取材を通して後に出版された人物の言葉です。
任意整理(約1200万)の全額も2年1ケ月で完済することができました。
ビジネスフォームの注文は想像以上に入り、徹夜作業で納期を守ることで 信用を勝ち取っていったのです。
軽運送のチャーター便を終えた従業員も進んで工場要員として、技術習得に励んでくれたのです。やがて、マンション一階の一部工場と駐車場であった場所をオーナーと交渉して、増改築をすることもでき、その後、元請けの社長にも勧められ一台1億数千万の新型輪転機導入を皮切りに増台してゆきました。同時に新たな顧客の獲得へと走りだすこともできたのです。
サラリーマン時代の営業経験をはじめ、全てをいかす挑戦の時でもありました。開業当初の名刺を手に「飛び込み営業」を思い出して行動したのです。
先ずは一般印刷業社へのアプローチ、顧客が客を紹介してくれるまで信頼を得ることも徐々にではありますが出てきたのです。
信用を得る根本は「約束を守る」ということである
人間にとって信用ほど大切なものはない。しかも信用というものは、一朝一夕に築けるものではない。それは、積むに難く、崩すに易いものだ。十年かけて積んだ信用も、いざという時のちょっとした言動で失ってしまうこともある。まt、小才で表面だけ飾ったメッキは、大事な時に剥げてしまう。苦難のなかをまっしぐらに自らの信念の道を真剣に誠実に生き抜いていく人こそ、最後にあらゆる人の信用をかちえていくであろう地味な、誰も見ていないような仕事であっても、それを大切し、一歩一歩、忍耐つよく進んでいく不断の作業が大事である。
学識も才知も、信用を土壌としてこそ、真実の力になることを忘れてはならない。偉人の言葉です。
経営者、サラリーマン、業務業種関係ない。信頼を得ることを再確認いたしました。
(10) 出会い
信頼による業務拡大と共に、印刷業にも様々な業態があることが分かっていきました。
取引先の一般印刷の会社から、印刷工業組合への加入の依頼と全国組織で 活躍する青年会への勧誘があったのです。
それに伴い、異業種との交流など忙しい日々を過ごすことができました。 三十代の青年らしく、様々な行事・催しのスタッフとして積極的に参加することで信頼と責任を任せられるようにもなりました。
青年会では札幌、そして東北の常任理事を担当。仕事と共に会の運営含め 全国34都府県・アジア(中国・韓国・タイ・台湾)を中心に海外8ケ国、 地域を訪問するようになりました。
10年前には考えられない事が起きたのです。ほんの数年前、資金繰りの 悪化で 札幌市中央区内の運送事務所を閉鎖し豊平区の店は現金仕入れを求められ、当時の法律では取り立て規制の法も甘く、ヤミ金業者のように電話は昼夜問わず入りました。その催促は電話は止まる(滞納)ことで解決しましたが、電気・ガスの停止には困りました。(水道だけは中々止まらない)しかし、取り立て屋はやって来る!(笑)
その対策も含めて、運送事務所を閉鎖しましたが、私の住まいはマークされていたのです。
ある時は「飛んでみて」と、持ち金を没収されたことも今では貴重な経験で笑えます。このことがきっかけで、弁護士による法律相談のアドバイスのもと裁判所に減免救済を行ったのでした。
人生というものは、実に多彩な「出会い」の連続である。美しい出会いもあれば、悔いの残る出会いもあるかもしれない。友人であってもよい。学問の師であってもよい。また、何らかの研究課題であってもよい。そのささいにもみえる出会いが生涯を決定してしまうことも多い。次元は違うが「出会い」は良くも悪くも全てにおいて影響をもたらす。そう語る偉人の言葉を私は実感しました。
会社経営の歴史の中、工場の事務所に泥棒が入った事、隣のマンションの
出火など様々な事件・事故がありましたが、今回は水害事故の一件について触れたいと思います。
その日は、私が得意先である苫小牧へ直行・高速道を走行中のことでした。ショルダーホン(当時の携帯電話)がしつこく鳴るのです。
「高速道路なのに……」と思いながら非常駐車帯へ停車。 電話に出ると「社長!」の一声からしばらくの無言。相手は工場長の弟からでした。
「工場が水没している!製品も水浸し!」と、絶叫している。
倉庫へ移動した製品以外はすべてダメになっているというのです。
得意先へ帰札を伝え、はやる気持ちを抑えて高速道をUターンし会社へと
向かいました。
到着して私も絶句しました。弟が叫んだ事に納得したのです。
機械も無論水に浸かり、納期の迫っている半製品までもがすべて廃棄物処理扱いです。
ほどなくして原因が判明。5階建てのマンション屋上に溜まりに貯まった プール状態の雪解け水が一挙に1階にある我が社の工場へ流れ落ちたのでした。 4月始めの「雪解け水」が管理不行き届きの末に起こった事故。
オーナーが加入する賠償責任保険は1,000万が最高額とのことです。
機械の修復含めまったく足りない。現場を査察に来たオーナー側の保険会社の査定員も「即刻支払う」と、私に一礼して早々に帰っていきました。 が、「追加はオーナーとの交渉でお願いします」と、そのオーナー、実はこの1ヶ月前に月50万の賃料を3ヶ月分150万円の前払いの懇願を受けて 支払っていたばかりでした。
空室状況が続き資金繰りに苦慮していたのです。
幸い、自社の機械保険等のメンテナンスも含め3,000万円程の損害補償金は即断即決で解決しましたが、問題は商品と納期の迫っている製品です。
得意先に説明と謝罪を私と営業メンバーでまわり、関連会社への外注で何とか信頼を失わずに済みました。その後、結果的にビルのオーナーが変わることで、自社工場への投資を検討する出会いが生じることとなりました。
(11) ドラマ
「自社工場への投資」事故後、ビルのオーナー及び管理会社の交代で契約内容、賃貸の値上等、条件変更で私は移転の検討を顧問の会計事務所、銀行と相談したのです。
早々に賛同してもらい、更に銀行は物件探しまで積極的に動いてくれたのでした。数件の候補はありましたが、白石区にある3階建てのビルを購入して、増築・改造工事をしたのです。
工場用フロアーの2階まで作業用のエレベーターを設置することで、従業員の負担軽減をすることが、感謝と効率に変わりました。また、3階のフロアーを後々製造と販売の分離会社を念頭に改造工事も行いました。
自社工場を持つことで、金融業界はもとより仕入先、得意先までも変化してゆきました。日本のビジネス業界は固定資産の重要性を物語っています。新社屋と共に輪転機を中心に機械も増台、更に販売部門を独立することで直販の自社営業を展開させました。北海道を中心に東京、関西へも進出したのです。製造増産のために2交代制勤務を導入、独立開業の当初「億の年間売上を成し遂げる」と語っていたことを有言実行することができ、電話・電気・ガスを止められた私でも「出会い」により、会社、経済的にはV字回復することができたのでした。
人生はドラマです!
2007年、突然の腹痛が続き病院へ、結果「手術」となりました。術後、主治医より説明を聞いて驚いた。「大腸癌!こぶし大の癌、22ヶ所のリンパ節摘出手術をしたよ」との事。後日検査の結果、悪性と判明「私の判断で癌の手術に切り替えた」とも告げられました。そして「手術にも色々なパターンがあるのだな」と改めて認識したのです。
前年、五男の弟を肺癌で亡くしていたので、検査を受けていたものの簡易検査(レントゲンと血液検査)で陰性結果のため違和感はありましたが、放置をしてしまいました。
当時、高校1年の長男を筆頭に、中学生の次男、長女は小学3年生でありました。ガンとの戦い、会社経営との戦いでした。やはり、得意先へは隠しとうせません。地元北海道そして全国の得意先へ知られるまでにそう長くはかからなかったです。経営者が癌に侵された情報は後継の定まらぬ企業には
マイナスであります。
特許協会に通い「フートー王」と名称登録した便箋封筒(請求書等がそのまま封筒になる)の全国通販(関東・静岡・大阪・郵便局)など反響もありましたが、次第に売上も下降していったのでした。
また、当社の機械でオリジナルマスク(通気性・ワンポイント入)の作成、特許出願申請など、研究・準備・施策中の製品でしたが、時代の波には勝てなかったです。 昨今のコロナ感染症期で「マスク需要」を思うと複雑な思いであります。
デジタル化(IT化)は当社を急速に通り越していったのでした。
癌手術の2年後、創業29年10ケ月、30周年を待たずの倒産です。
顧問弁護士と「熟慮の決断」でありました。当時の新聞には(帝国データバンク)<株式会社 ○○(代表 ○○○)資金繰り悪化の為、管財人に一任する。「好調時5億の売上を保持するも、売上回復ならず倒産する」>と掲載されてしまいました。
会社・工場、自宅、土地を売却するも、売却する時は足元を見られるモノ です。 到底・・負債には届かなかったのでした。
「全権限を持つ代わり、全責任を負う」オーナー経営者の宿命ともいえるでしょう。昼は会社整理の為、二種免許を活かし夜間、タクシーの運転手となり、妻にも早々に働いてもらいました。また、子供達にも多大な不安と苦労をかける事となってしまったのです。
中小零細企業の経営者の陰と陽を再度体験する事となりましたが、今回の
違いは家族がおります。
人生はドラマですね。
(12) 生涯現役
私を強くしたのは子供達・家族の存在であろう!「私は 死ねない」
先ずはそう決意した。それと、「逃げない!俗にいうホームレスは負けの 象徴でずるい!」と逃避の心を持つ私も過去の道北、北見・網走の体験が 生かされる事となったのです。
現実は非常に厳しかったです。当社の顧問弁護士と予め相談し、全ての財産を処分しても負債総額が多いとの結論で、自己破産を選択しました。
幸い会社・個人とも、長年の顧問弁護士がいたため当方の弁護士料は払わずに弁護をしてくれたのでした。(管財人弁護士料は別)
昼は裁判所、弁護士、管財人弁護士との帳簿・書類及び財産等の確認、
債権者集会への準備、夜はタクシー乗務である。30数年前の時代とは違いタクシーは稼げない!とは聞いていたが、これ程までに売上・収入、職業価値が下がっているとは思わなかった。チップの収入も当時とは雲泥の差である。時代は全ての価値も変化をさせるものである事を思い知らされたのでした。 とにかく、稼がねばならぬ!そして、少しでも多く高く財産処理をせねばならないのであった。「希望」そう思うことで自分を励ましました。
債権者集会も第2回、第3回と続くと債権放棄をしてくれる会社も出てきたのです。心から感謝をしました。
2年4ケ月の時を経て終了。「負債総額1億4千4百万円」
当然、ギャンブル・不正もないがこれだけの時間と忍耐が必要でありました。 被告人一言の場面で私は「誠実に深々」と頭を下げました。
私には倒産の覚悟を決めた日から、対面や、見栄などとうに捨てていたのです。 それよりも何十倍もの守らねばならない家族がいるのだ。
「被告人を免責処分にする!」裁判長の宣言で、私は「免責許可」を得たのです。「感謝と安堵」生涯忘れる事はない日となりました。
かえってきた預金通帳は全てが「0」マーク、わかっていても辛いです。(笑)
私の人生設計は会社の倒産で狂ってしまったが、「計画を修正」65歳の
年金生活に縛られず、生涯現役で働く決意を新たにしました。
自由を謳歌する!15歳から社会で働きはじめて、
65歳「労働50年の記念」を自分への褒美としたい。
それは「元気で働く!」ことであります。
現在、目標であった65歳を7年過ぎようとしています。
皆さま、生涯現役で「ピンピン コロリ」でいきましょう。(笑)
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