見出し画像

僕はアトムの子で、そして心やさしい科学の子であり続けたい

子ども頃から私はずっと科学少年だった。
昭和30年代は科学技術が飛躍的に進歩した時代だ。日々の暮らしが劇的に変化し、空想科学の世界がどんどん現実になった。そして、昭和38年にはテレビで「鉄腕アトム」がスタートした。私の科学信仰の原点ともいえるアニメだ。主題歌(谷川俊太郎さん作詞)に、こんな一節がある。
「心やさしい、ラララ、科学の子‥」。そう、私は科学の子なのだ。
その後、科学技術の負の側面が問題視されるようになるが、科学に対する信仰心は、今も自分の中で根強い。

私が科学に肩入れする理由には、実は家庭の事情もあった。
それは、本当の信仰の問題だ。
私の家は祖父の代から、ある新宗教(江戸末期から明治に生まれた宗教)を信仰していた。私の父は最初、あまり熱心ではなかったが、しだいにのめりこむようになり、儀式に参加させられたり、信仰について長々と説教されたりすることが多くなった。
父によれば、私がちゃんと信仰をしないと、親があの世で苦しむことになるのだそうだ。お前もこの信仰を死ぬまで守り、自分の子どもにも継がせなさいと言う。そんな無茶な。
そんな環境だったので、信仰の世界に引き込まれないための理論武装として、科学的な思考を身につけることに一生けん命になったのだろう。

大学に入ってから実家を離れたので、この信仰問題は一旦遠ざかったかに見えた。しかし、思わぬところでそれは復活することになる。
結婚を決めた女性、つまり妻の実家が別の新宗教の教会だったのだ。こっちは本業だぞ。いよいよ抜き差しならないじゃないか。

しかし、これも運命なのだろう。お互い信仰生活に慣れているので、結婚してもお互いの実家での儀式になんの違和感もなく、スムーズに溶け込めた。
それどころか、妻の実家(教会)を何度も訪問する内に、信仰が多くの人の迷いや悩みを癒やしていることがよく分かった。

おいおい、引き込まれてるじゃないか、と思われそうだが、それが私の実感だった。実際、今でも世界中で多くの人間が信仰生活を送っている。そこには何か重要な真理があるのではないだろうか?それを見極めるのも科学の役割かもしれない。

確かに宗教には負の側面がある。しかし、科学にも負の側面はある。
どっちかが正しく、どっちかが間違っている、と決めつけるのは科学的な態度ではないと思う。

「心やさしい、科学の子」は、寛容にそして冷静に世界を見つめなければならないと思う。


いいなと思ったら応援しよう!