【異郷日記】9/10/24 アートが生まれるのは混沌か整然か

朝練習はなんとか起きるが、いつも以上に四苦八苦する。自分の感じていること、それを表現することがなんとなくすんなり素直にはいかなくて、自分が自分でない気がして、苦しかった。

うわっと吐き出す気持ちは他者には毒にもなるし、おいそれとは出せないものがある感覚が薄れて、どんどん出す感覚になっているのはよいことでもあるが、公共性のある場でのある程度のTPOはマナーである感覚はある。自分にとって安全と感じる場を意識してつくることが対応策だろう。外は外、自分の気持ちは自分で、どんなものであれその違いを認識しながら受容していたい、と理論上は思うが、それを体現する行動かどうかの見極めを自分ですることが難しい。

今日も昼前から夜まで仕事。団体キャンプの初参加前にかなりナーバスになっているクライアントと一緒にすごす。人は、何をするでも話すでもなく、誰かといるだけで助けられることがある。それをしていると思いながら、緊張が高まってしゃべりまくっている、動き回って落ち着かないクライアントに、落ち着いて椅子に座ったまま話す。落ち着いた空気を作って、あとはクライアントがそれに反応してくれたらいい、と思って一定で淡々とした話し方や動きを意識した。

そのあとはアートルームの掃除と片付け。かなりひどい状態からのスタートだったが、誰のアトリエもけっこう散らかってるものかもとも思う。混沌としたインスピレーションの体現の記憶のような散らかりが、作る、完成させるために必要なモチベーションや試行錯誤をそのまま保存する場所になる。現代のアーティストは片付いていそうな気もするが。その混沌や道具に手が届く気軽さ、何よりも描いている時の空気感みたいなのが残るので片付いてない部屋もいいのかもしれない。しかし人と共有する場所は片付けられるようになってほしいと思い、きれいにした。制作時の余韻みたいなのはこそげ落とされ、フレッシュなスタートができそうだ。制作は、フレッシュにスタートし、途中で迷い、苦しみ、混沌を経験し、答えを導き出す。そのすべての過程を最初から最後まで体感することは貴重な体験になり、一種の成功体験にもなるが、自ら体験することが大切かもしれない。そういう経験をすることそのものに価値を見出しているから、結果としての作品の完成度にはさほど重点をおいていない。そういう自分の立場や気持ちを確認できてよかった。

しかし、実際に作業している時は、へんだった。オフィスには上司たちがいて、私はいかないほうがいいような気がして、用があってもなるべくいかないように気をつけた。今書きながら気づいたが、この感覚は、子どもの頃、客人を居間に招いている時や祖父母と両親の誰かが険悪になっている時に感じていたような感覚だった気がする。なんか苦しい感じがしたが、とにかく大量のゴミの山のように見えるものを片付けた。

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