【異郷日記】21/9/24 無意識に自分を責めている
昨日の夜、今朝ヨガのため早く起きるのに寝るのが遅くなってしまった。ストレッチをして、あずきの力を温めて首に巻き、首や肩やあばらをセルフマッサージしてゆるめる。その時に気づいたことは、寝れない自分を自分で責めていることだ。寝れないのも、寝ようとしているのも自分。そうか、自分を責めていたのか、と妙に納得し、ごめんねと謝る。横になっているだけでも疲れは取れるし、そのうち眠れるよ、大丈夫と自分で自分に声をかける。なんとく実家の風景を思い出す。今頃は実家も真っ暗な闇の中だ。田圃や木々に囲まれ、遠く見える道路の光がぼんわり見えるぐらいだろう。曽祖父母、祖父母、父の写真のある座敷、仏壇、そこに広がる静かな闇を思う。この世を去った祖父母や父のおかげで今の自分がある。ありがとうと感謝の気持ちが浮かんで心の中でしばし語りかけた。
目覚ましが鳴る少し前に目覚めて、魚に餌を与えて支度をしてからヨガへ。早朝から疲れて仕事に支障が出るのではと不安になるが、少し早く退室して横になって休んで整えればいい。バタバタと支度を出勤した。
泊まり番をした同僚は、カバンの中身をお店のように広げていて、あっけらかんとしていた。この同僚だけでなく、わりと多くの現地の人はこんな感じで、私物のベッドシーツを出しっぱなしにしたり、そのへんにいろんな私物を出して気にしないでいる。私もうっかり忘れて出していることはあるが、基本的には自分のカバンにしまう。ベッドシーツなどは掃除が適当になされる部屋にあるので、埃などが気になるし、なんとなくそういう衛生観念、ひいては同僚を信用していないのだと思う。人の名前のついたボックスやレターケースは基本的に見ないものと思っていたが、こちらの人は必要がある時は見る。その時に見られてもいいや、あははというようなおおらかな気持ちでいられたらいいのだが、なんとなくコロナ以降、人に私物を勝手に触られるのも気になるようになったので、それでよりきちんとしまうようになった。
こういう日常の細部で緩むのも大切だと思った。なぜなら、こういうゆるみは人に心を開く一歩なる。現に、泊まり場をした同僚がパジャマで無造作にオフィスに入ってきたりすると、なんとなく親しみがわく。中高生の時とかに感じたような、制服を着て会う友だちと、休日に私服で出かけたり、お互いの家にお泊まりすると、ゆるんだ内面が見えるようで一気に距離感が縮むようなあの感じに近いと思う。こういう、大人になったら遭遇しにくい、日中のオフィス仕事ではまずないような場面がある職場にいることはおもしろいと思っているし、好きなところな気がしている。
クライアントの一人が去って、入れ違いで別のクラスアントがきた。話していると、嘘か本当かわからないような話が多い。本当だと考えにくいが、嘘をつく理由もなさそうな他愛のない内容だ。こうしてトピックがなんであれ、自分も知っている、やったこと行ったことがあるということが癖になっているのは、こうしてまで嘘をつく理由があるということだと思った。このクラスアントは1対1だととても素直で人懐っこいが、周りに複数の人がくると、その周囲の人の性格や言動に合わせようとする、そしてそこで自分が優位に立とうとする。この不安定な愛着は、再度育て直す必要がある。その時に、親子の二人三脚が必要だが、子に変わることを期待して、自分を正当化して守りに入る親が多い。どこにも親になる教科書はないのだから、試行錯誤することは当然で間違いや軌道修正が必要な場合があるが、そこに抵抗感のある親が多いと感じる。本当は心の中では自責の念があるかもしれないが認めたくないのだろうのかもしれないと思う。
午後からクライアントを連れて、同じプログラムの別のサービスの人たちと待ち合わせて、大きな公園に行った。なんとなく落ち着かない不思議な集まりだった。帰りにアジア人の人たちが集まって円になり、歌を歌いながら踊っていた。盆踊りのように各自で踊りみんなで同じ動きをする。なんとなく懐かしい、郷愁を誘う音楽に聴き入り、踊りを眺めた。その輪の近くにいた乳児を抱いた若い女性に聞くと、ブータンの人々の集まりだという。幸福度の高い国として有名になったこともあったが、こうして海外にきてコミュニティを形成するほどの人数がいる。いろいろ聞いてみたかったが、通りすがりであり、またクライアントたちが待っていたので礼を言って公園を離れた。
終業して帰宅後もなぜか元気があり、お茶の戸棚と洗面所の戸棚を整理して断捨離までした。仕事に時間もエネルギーも注ぎ込むのではなく、自分のこともできたことで充実感を感じながら一日を終えた。
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