【異郷日記】2/10/24 モヤモヤするコミュニケーション
ヨガ。またベッドへ戻る。起きて朝食。自分と家人の昼食の用意をする。
仕事へ。行ったらなんと3人だけのミーティング。
途中で、何回か気になることがあった。うまくバウンダリーの概念が説明できなかった。ものごとを曖昧に理解しているからだ。はっきりと、定義などを覚えていなくて、感覚的に曖昧になんとなく理解していることが多い。しかも、そのバウンダリーの概念は、もともとはビジュアルの説明でみて、自分もいいなと思って取り入れたもの。しかもその時に細部まできちんと理解できてないから、わからなくなってしまう。自分の言葉に落とし込む大切さを痛感した。結局は、各自がバウンダリーがあってそれは犯せないという意味は確認。その揺るがないバウンダリーとバウンダリーの間に、ネゴシエーションする空間があると思うが、説明する言語能力のせいか、この曖昧な理解のせいか、なかなか通じなかった。しかも、バウンダリーは犯せないと同僚に言われて、たしかにそうなのだ。しかし、その間にネゴシエーションできる空間があると言いたかったのに、バウンダリーはネゴシエーションできないと言われて、そこの説明がその時はうまくできなかった。書きながら悔しくなってくる。
書きながら、思い出していたのは、クライアントの話をしたいので少しでも話せるといいんだけど、と言ったときに、なぜか議事を上司から預かった人からノーと言われたこと。もう一人が同じことを言ったら、あとで話そうと返していた。え、さっき話さないって言ってなかった?とは言ったら、いや話すよと流されたが、すごく違和感があった。今書きながら腹が立ってきている。わざわざ過去の怒りを持ち出すなと言われる案件だと思う。そのときから今思い出すまでとらわれていなかったのは、不完全燃焼とはいえ、一応違和感を表現できていたからだ。でも、本来は、えーさっき私が聞いたらノーって言ってたじゃん(笑)とか、そういうふうに、もう少しはっきりと言えたらいいと思う。しかもこの(笑)みたいな、嫌味とブラックジョークの狭間な感じは現地人がよく使う手だ。
もう一つ、昨日から一番気になっていたことは、手紙の件だ。手紙をクライアント二人にチームとして書くことになり、一人が手を挙げて、もう一人は私は書けないと言っていた。私がクライアント一人を受け持とうかというと、いいよ大丈夫と、その名乗りをあげた人物が言う。この人はとてもコミュニケーション能力が高くて、気持ちよく付き合えるが、我々のやっているセラピューティックワークの真髄を理解したり、全体像をみてサービスモデルの中から言葉を選んだりするのがそんなに得意ではない。ずいぶん改善されてはいるが、たぶん本人が言っているように、インテリジェンスではないからだ。私が書いた下書きなどをシェアして手直しをして練習してもらうよう上司から言われてそうしたり、この人が書いたものを私が手直ししたりしてきた。しかし、昨日は自分が書くから大丈夫、と言ったあとに、私が下書きしたものをこの人と上司に渡したものを持ってきて見せて、私が書いたものにこのクライアントがサービスにもたらしたものを加筆した、そして私の文は繰り返しの部分があったのでコンパクトにした、と言いにくそうなそぶりをしながら言ってきた。言いにくそうなそぶりはたぶん私が非ネイティブなので言語の問題だから言いにくそうなパフォーマンスをしつつ、でもそういうニュアンスを体で伝えたいのだろうと思った。その編集は上司の助けを借りたのではと思ったり、いや、それは憶測だと自戒する。とにかく、なんか嫌だったのだ。その時は、じゃあパーツを書いて送るね、と言ったが、モヤモヤした。それを今まで引きずっていたが、私が自分でクライアントにむけて書く文章や内容はよい。そしたらそれでいいじゃないと、今すごく不思議とすっきりできた。
今日、書きながら思い出してさらにモヤモヤした、が、モヤモヤしたことを書きながら解消した。とても不思議だが、両方が起きた。
いや、しかし、私がこの対応に苦労したクライアントの親といまだにセッションしていることが気に食わないのかも、そしてこのクライアントの親との話題を上司と、ミーティングの前にこの人の前でしていたなと思いだした。
ミーティング後は急きょキャンセルになったクライアントが来てくれることになって、話をする。親子の悪いコミュニケーションのサイクルを断ち切る必要がある。今日は、正しいことを伝えたくて、いつもいうのをためらっていた内容に踏み切る。言葉は変えたが、要するに親が変わって欲しいということだ。子どもの言動を見ると、ありえないというか、ゆるせないのはわかる。でも、目的は抜本的な改善だ。
しかし、このあたり言葉が足りなかったかもしれない。靴下を投げつけられたら、それは腹が立つだろう。悲しいし虚しいだろう。反応しないのが吉と言われるが、腹が立ったら怒りを表現してはいけないのか。それで子どもが親の怒り、バウンダリーに気づく場合もあるのではないかと思う。しかし、親は怒りをどこにぶつけたらいいのか。私が聞いてあげていることが助けになるといいなと思う。
最後は虐待の件をリポートした。新しいシステムがうまく働かなくて、完全な情報は得られなかったが、任務は完了できた。
帰宅する前に、スーパーに寄ろうか迷う。家人が今日はおでかけし、夕飯もいらないと言ってきたからだ。仕事前に作って置いてきたチキンサラダはまだあるのか。わからなかったが、ともかく帰った。すると家人がいて、そのでかけた先の家に犬がいて噛んだり舐めたりされていやだったから帰宅したという。そのあと冷蔵庫を開けたが、チキンサラダはなかった。家人いわく昼食に食べ、出かけた先から帰宅後にまた食べたのだという。脱力した。何か作るよと言われたが、そんなに食欲もないし、はやく終わらせたいので、あるもので済ませた。
夜は瞑想。途中から、手がだるくて字も書けなくなり、とても眠くなった。