【異郷日記】6/9/24 二つのものを共存させる
連勤最後の朝、数分遅れてしまったが出勤。こちらでは、遅刻が当たり前かと思いきやそんなこともなく、けっこうちゃんと早めにくる人が多い。私はギリギリになるタイプで、日本の職場も今の職場と同じで、数人だったので数分の遅刻もお茶を濁していたが、オフィスなどはどうなんだろうと思う。
今日はいろんなワークができてよかった。中には、子の親であるクライアントから、チームのアプローチ方法について、苦情近いフィードバックもあったが、その言葉の奥にあるものをすくい取ろうとしながら話す。結局は、みんな結果がでなかったり、責められたり、ジャッジされていると思うから不満が出るのだと思った。自分が悪者になったり、子どもに無視されたりする姿をさらすのはきついことだろう。セラピューティックなアプローチは効かないと言い、こちらにティーンを甘やかさずに厳しいバウンダリーを設けるよう要求してくる。
相互で譲歩しあう余白を持ちながら、自分と相手の違いを明確にしていく、バウンダリーは大切だが、安全な、セラピューティックな関係の中でできる。バウンダリーがない状態だったところから、そのラインを引くならば、少し言葉や態度にどんなに気をつけても、急激に変わることで、トラウマのある人たちが冷たい、こわい、見捨てられたなどの感情を持ってしまう可能性がある。それならばバウンダリーは本来の機能をせずに、ただ関係を壊してしまう。バウンダリーとは、もっと安全で、お互いの気持ちを伝えあって妥協点を見つけたり、交渉したりできる相互関係があって、その上で自分も相手も大切にすることが鍵になる。
しかしこのクライアントは、バウンダリーとセラピューティック、この二つの事項が同時に共存する姿がイメージできないのだと思った。だから、子どもとの間に安全なバウンダリーが引けてないのだと思うが。異質に見える事項を共存させたり同時に行うことは可能なのだが、その事項たちがかけ離れているように見える場合、どちらかに偏ろうとするのだろう。こうした、2つの事柄の比較・ブレンド・統合などは、陰陽、昼夜、男女、白黒、太陽と月などを例に用いて永遠に語られるテーマなのだろう。二つがかけ離れていたとしても、その間にあるグラデーションの部分を見ることができればよいのにと思う。そのグラデーションを見るためにどう導いていけばいいのか、魔法があればいいが、とにかく一歩一歩進むしかないと思う。今回は、具体的な問題への対応法をいくつか提案して、親とこちらが環境だけを整えて、決断と行動は本人のアクションに任せ、それを待つことに落ち着いた。
帰宅して溜め込んだ書類の整理をした。少しずつ片付いて嬉しい。断捨離は苦手だが、ものを減らしたい。持っているものを把握したい。それでまずは絶対にいらない古い書類を捨てた。連勤していたので、大変疲れて、ほとんど寝て過ごしたのに、急にものすごく元気で、昔聞いていた音楽を聴きながら気分よく片付けがすすんだ。
職場で忙しくて、昼食を逃した。でもあまりお腹は減らなかった。瞑想のおかげか、連勤の疲労か、水分摂取量に気をつけている賜物かわからないが、量を食べなくても満足感があるのは、食べ物ではない他のもので満たされているからなのだと思う。
間違って職場に届いた手紙を、ポスト入れそびれて続けている。家人に話すと、すぐ近くのポストに入れてきたらと言われ、それもそうか、夜の散歩だと思い出かけた。薄い爪のかけらのような上弦の月だ。薄い雲が月のまわりに流れ早く漂っていたので、月は雲隠れしたり現れたりを繰り返していた。帰路、近隣の家で、おそらく車庫で楽器演奏をし、ジャムセッションをしてる音が聞こえた。なかなかよい演奏だ。月をみつつ、その写真を撮りつつ帰り、家人に月とジャムセッションの話をして、家人を連れて行った。音を聞いてなかなかいいね、と話す。家人と二人で立ち止まって、何回か月の写真をとる。雲は流れ、黒い空に月が光っていた。なかなかきれいに取れなくて、各自のスマートフォンのカメラの設定を変えて、試行錯誤する。こんな夜がとても穏やかで平和で、ゆったりとした気分で帰った。
月も太陽の対比として用いられる。月は基本的に夜に太陽光を受けて輝き、朝になると見えないことが多いけれど、太陽が出てからも西の空に白く見えている時もある。どちらか一つが出ている時は、その月の力が遺憾無く発揮されているように輝くが、太陽と共に空に鎮座しても、また別の趣きがある。光を受けた輝きはなくなるが、白い月をじっと見ていると、クレーターの凹凸のような、色のニュアンスやグラデーションがなんとなく見える。これは太陽があぶりだしたものだ。二つのものが共存する時、そんな変化があるといいと思う。太陽と月の共存、二つのものを共存させるのが難しい時に、思い出したい光景だと思う。