何度でも言う。やはり、美しくない人間なんてこの世にはいないのだということを。

https://youtu.be/qf_QQrmixqQ


連日に渡って、各方面から『死にたい』という話を聞いた。程度はそれぞれなのでひとくくりにはできないが、私には私にできることをしよう、ということで兎にも角にも話を聞いた。話を聞いてわかったことが1つ。それは、みんな『〇〇さんのことを許せない』というところに問題が集約されているということだった。今年に入って、撮影のこともあり、嫉妬という感情と何度も対峙することがあった。嫉妬する人の話を何度も聞き、そしてその感情に対し考えたり感じたり、そしてそれを踏まえて写真に遺したりということを繰り返してきたし、今もその最中だ。その中で何とは無しにだが嫉妬には2種類あるのではないかというところに、私の考えは至った。1つは、単純な嫉妬という感情。これはそのままの意味合いで、自分の意中の人が誰か別の人と一緒にいることが許せない、悲しい、苦しいというものだ。そしてもう1つは、意中の人に結果的に傷つけられ悔しいというもの。それによって想いが執着に変わり、何をするにもその執着が中心となり、気づけばそれを軸に人生の舵取りをして苦しんでいるというものだった。どちらも苦しいには違いないのだが、後者に関していえばこれは非常に扱いにくい代物であり、いわゆるホローポイント弾のように体の内側から総てをズタズタに蝕んでいくようなものでもあるなと思った。今日ちょうど三浦綾子先生の『ひつじが丘』という作品を読了したのだが、そこにもまさにこの嫉妬に関する話、許しに関する話が出てきた。『愛とはゆるすことだよ 相手を生かすことだよ』という言葉がしきりに登場するのだが、この『ゆるす』ということはまさに『祈り』に近いものでもあるなと思った。私は過去に、1日のうちで嫌なことを言われたり、嫌なことをされたりすると、その日の終わりに主の祈りを一度唱えて眠るということを行なっていた。最後に『〇〇さんの心が平和になりますように。』ということを言い、本気でそれを祈って眠っていた。そうするうちに、だんだんと何かを言われたりされたりするたびに、その瞬間瞬間がスローモーションで見えるようになってきた。相手がたとえ怒鳴っていたとしても、それがゆっくりに聞こえ、身振り手振りもまるでマトリックスかのようにゆっくりと見えるようになったのだ。そうして心の中でいつしか、『ああ、この人は、哀れな人なんだな。』と思うようになっていた。正直に言えば、この『哀れ』という思い方がいやらしい思い方だったこともある。自分があくまでも上に立ち、下のものを見るかのように『哀れだ』というように感ずる。それによって、何か自分の中のプライドのようなものを保っていたのかもしれない。それでもその瞬間瞬間、自分自身の心は少し和らぎ、『嫌だ』という気持ちに引きずり込まれることはなくなったことも事実である。最近ではこれとは少し違って、『哀れだな』と思うことも多々あったりもあるが、それよりも、『この人はどうしてここまで追い詰められたのだろう。何があったのだろう。』という風に考えたり感じたりするようになった。個人的にだが、『哀れだな』と思うことはある意味、少し相手を突き放すような感覚になるが、『どうしてこうなったのだろう』と思うことは相手に対し、関わりたいという欲求が少しあるような気もした。人間関係というのは正解がないと思っている。ないというか、そもそも正解を求めるものでもないような気もするが、どこをゴールにしたいかによってやはり関わり方は変わってくる。おそらく、『ゆるし』という概念も同じだ。そもそも人間は神ではない。神ではないものが、何を持って、同じ立場の人間をゆるすのだろうかと思うこともある。それは傲慢でおこがましいことではないのだろうか、とさえ思ったりもする。『罪なき者からこの女に石を投げつけよ』という言葉が好きだが、私は脛が傷だらけなのでそもそも誰かを責める気にはやはりなれない。どんなに『こいつ苦手だな・・・』と思ったとしても、二人で話したりすると、誰にも見せないような顔を見せてくれたりする。誰にも言えない話をしてくれたりもする。人間は、ふとした瞬間の表情がとても美しい。それは、得も言われぬ哀しみがそこにはあるからだ。その人自身が越えてきたもの、それによって宿っている魂のようなものがそこにはまざまざと映るからだ。だからこそ、何度でもいうが美しくない人なんていないのだ。こんなことを言うと、偽善者と言われるがそんなことはない。嘘だと思うならあなたも踏み込んで見ればいい。その人と、話してみればいい。私の言っていることがきっとわかるはずだ。人間はみんな、哀しみを背負っている。哀しみの宝箱を持っている。そしてそれを腫れ物に触れないように扱ったり、はたまた土の中に埋めたりもする。しかしそれがふとした瞬間に溢れ出してくることがある。その時その人自身が語る言葉や表情、眸の総てが音楽であり、芸術であるといつも思う。それを糧に生きている我々芸術家はハイエナのようだと思うことも確かだが、それでも美しいことに変わりはない。どんな生き方をしてもいいが、人間として生きている以上、やはり誰かと関わって生きていくこと、出会って生きていくことほど素晴らしいことはないように思う。出会いによって生かされ、時に殺されることもある。それでも出会って出会って死んでいく。それこそが生きることの、生き切ることの意味だと強く感じる。そしてその根底にはやはり、祈りがあってほしい。そう思わずにはいられないのである。


最後に、ひつじが丘よりある言葉を抜粋します。

『たしかに彼は飲んだくれでありました。わたしの娘、奈緒実は酒を飲んだ彼に殴られ、けられたこともあったようであります。 
 しかし彼は病を得て以来、徐々に、否、急激に変化して行きました。わたしは、彼が礼拝に出た姿を見たことはありません。祈っていた姿を見たこともありません。けれども、彼の心の深いところで、彼は神の前にひざまずいていたのであります。わたしどもは、彼と娘との結婚に反対をしたのでありますが、彼は結婚をゆるそうとしなかったわれわれ夫婦に、一度も敵意を見せたことはありません。 
 また、彼と別れようとして、冷たく彼を拒みつづけたわたしの娘に対しても、彼はゆるしを乞う姿勢をくずしませんでした。彼は浴びるほど飲んだ酒をやめ、ある女性とも手を切ろうと決意していました。しかし、彼女のさし出した、たった一杯の盃に、たった一杯のウィスキーに彼は負けたのであります。 
 久しく酒を断っていた彼の体に、ウィスキーは強烈な作用をなしたようであります。彼は帰宅の途中で眠くなり、そして遂に永遠の眠りについてしまいました。』 
 耕介は泣いていた。時々言葉は詰まり、式辞は途切れた。
『われわれはともすれば、自分を正しい者のように思い、人を責め、きびしく裁こうといたします。けれども果たして、神はわれわれ人間に人を裁く権利を与えておりましょうか。あの聖パウロでさえ、自分を罪人の頭と申しております。 
 われわれが神の為にでき得ることは、実は人を責めることではなく、ただゆるしを乞うことだけではないでしょうか。 
 どうか、ここにかかげてある彼の絵を見てやって下さい。これは彼が十字架のゆるしを乞うている姿であります。キリストの流したもうた御血潮をもろ手に受けて、『キリストよ。あなたを十字架につけたわたしをおゆるし下さい』と告白している姿であります。  
 ここにわたしは神と人との為に告白いたします。わたしたち夫婦と娘奈緒実は、心の中で彼を責めつづけ、裁きつづけた者であります。彼が既に悔い改め、神が彼をゆるしたもうていたにもかかわらず、わたしどもは、決して彼をゆるすことをしなかったのであります。 
 人の目には、彼とくらべると、わたしたち夫婦や娘は、善人であるかのようにも見えましょう。けれども神はご存じであります。神の最もきらいたもうのは、自分を善人とすることであります。そして、他を責め、自分を正しとすることであります。 
 人間は一人として完全な者はありません。わたしはこの年まで、毎日いかに不完全な、過失多い毎日を送ったでありましょうか。わたしは年若き日に、妻ある身でありながら、他の女性と通じた恥ずべき人間であります。たとえこのような目に見えた罪は犯さなかったとしても、神の光の前に照らし出される時、顔を上げ得ない人間であります。 
 人間はまことに過失を犯さなければ生きていけない存在である故に、われわれは、ただ神と人とにゆるしていただかなければ、生きて行けない者なのであります。 
 それをよく知りつつも、わたしたち夫婦と娘は、彼をゆるさずに死に至らしめてしまった心冷たい傲慢な人間でありました。』     


三浦綾子『ひつじが丘』
326頁-328頁より抜粋

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