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【発症前】両親の不仲~幼少期の記憶②~
こんにちは。門 東花(もん はるか)です。
このブログは、摂食障害(過食嘔吐)を18年経験した私の体験談を伝えるブログです。
以前、プロフィール記事で「私の摂食障害歴には第1期・第2期・第3期がある」とお伝えしましたが、最初に伝えるのは『第0期』。発症前のお話です。
前回に引き続き、今回も幼少期の話。
前回は、私がどんな子どもだったかをお話しましたが、今回は私がどんな家庭環境であったかを幼少期を通してお伝えします。
物心ついた時から不仲だった両親
私の家族は、サラリーマンの父と、パート勤めの母。6歳上の兄と4歳上の姉。私は、5人家族の末っ子でした。
余裕のある家計ではなかったけど、すごく貧しいわけでもない。至って標準的な家庭だったと思います。
家族で出かけることも度々あり、一見すると平和な家庭だったはずです。
しかし内情は、少しいびつな家庭でした。それは、両親の不仲。
私が物心ついた頃には、両親の会話は、常に攻撃的ないがみ合い。夫婦喧嘩が日常の家族風景でした。
夫婦のパワーバランスは、どちらかといえば母が上。母は父の前では常に不機嫌。父はいつも母に罵られ、そんな父も負けじと大声で言い返す…そんな状況です。
この両親の不仲について、幼少期に強く記憶に残っているシーンを2つ紹介させてください。
両親の不仲の記憶①母が泣いたこと
今も鮮明に焼き付いている、夫婦げんかの記憶があります。
ある日の夕食後、父と母がまた喧嘩をしていました。喧嘩の内容は、すごく些細なことです。たしか、テレビのチャンネル争いでした。野球を見たい母と、時代劇を見たい父。
突然、父が母のことを平手打ちで殴りました。一瞬時が止まったその直後、母が泣き出しました。その時初めて、私は母が泣くのを見ました。それを見た兄も姉も私も、ショックで泣き出しました。すごく恐くて悲しい家族のシーンでした。
母は、泣きながら2階へ上がっていきました。暗い部屋で1人、頬を冷やし泣きながらテレビを見ていました。そんな母をどうにかしたかった私は、持っていた人形を使って話しかけに近寄りました。
すると母に「うるさい!やめて!」と追い出されてしまいました。
その時、私は拒絶された悲しさと、余計なことをしてしまった自分の恥ずかしさと罪悪感で苦しくなっていました。
両親の不仲の記憶②父の切ない姿
もうひとつ、幼少期の夫婦の不仲で印象深い場面があります。
父が休日だった昼間のことです。私は母に怒られ、泣いて拗ねていました。
そんな私を見て父は「元気出せ、ほら、チョコとガムがあるぞ」と、母が買い物で買ってきていたお菓子を見せながら励ましてくれました。
すると母がすかさず「余計なことしないで!」と父からチョコとガムを乱暴に奪い取りました。
その父の姿が、私にはすごく切なく可哀そうに映りました。
私は、いたたまれない気持ちでどうしようもなく苦しくなって、家を飛び出しました。その後どうしたのかは全然憶えてないのですが…。
一見、そこまでショッキングな出来事ではない、父と母のただの日常です。
でも私は、今でもこの場面を思い出すと、すごく切ない気持ちがこみあげて、心がグッと苦しくなります。
私の人生において、忘れられない大きな出来事でした。
まとめ:無自覚だった深い傷
結局、私の両親は離婚することなく、ずっと不仲のまま今も夫婦をしています。学生時代もずっと夫婦の喧嘩を見ながら育ってきました。
私がこの記事で伝えたいのは「両親が悪かった」ということではありません。
私が幼少期から、両親の不仲に対する深い傷に無自覚だったということ。
両親の不仲に対するショックや恐怖心や悲しみをどこにも吐き出せず、幼い頃からフタをしてきていました。
しかし、いくらフタをしても傷は消えません。知らず知らずに年々傷はどんどん蓄積していました。
摂食障害がひどくなって、カウンセリングを受けたことで、初めて両親の不仲に対する傷に触れることができました。私は、とてつもなく深く傷付いていました。
忘れられない幼少期の記憶が、無自覚な傷を私に教えてくれました。
もし症状に苦しんでいたり、生きづらさを感じているなら、断片的な記憶の中にその原因が隠れてるのかもしれません。