日本の公鋳貨幣47『銅(棹銅/長崎貿易銭)』
17世紀の世界経済を動かした日本の輸出品
公鋳貨幣とタイトルに銘打っている以上、次は「元禄の改鋳」の話をする予定でした。が、ふと、江戸幕府が正式に発行し、貨幣として流通し、世界経済にめちゃくちゃな影響を与えたにもかかわらず、余り日本の貨幣史の本には載らないお金があることに思い至りました。載ったとしても日本側の視点からの紹介ばかりです。僕も、これまで作ってきた出版物でこの貨幣について触れる場合は、日本側の視点でのみの解説しか書いたことがない気がします。
ということで、今回のテーマは江戸時代初期の「日本産銅」。それも、海外での話を中心に書いていってみようかと思います。日本史が好きな人ほど知らない話になるので、かなり長くなると思います。(うまくいけば、世界史マニアの人にも刺さるかもしれないw)
日本から輸出された大量の銅
寛永13(1636)年に、大量の寛永通宝が鋳造できたことからもわかるように、17世紀日本では、ゴールドラッシュならぬカッパーラッシュに沸いていました。巨大な銅山が次々と発見され、銅採掘が盛んにおこなわれたのです。
日本で銅山が開発されたのには、いくつか理由があります。戦国時代でしたので、鉄砲の部品としての需要が高かったこと、仏具の素材として必要だったことなどなどですが、やはり一番は、銅鉱石をきちんと精製し吹き分けることができれば、金や銀も取り出せたことがあるでしょう。戦国時代から、銅の吹き分けを大坂で行い、元禄3(1690)年には別子銅山を自前で経営するにまで至った住友家だって、南蛮吹きという技術で、荒洞から金銀を取り分ける事業からスタートしています。
江戸時代、日本で産出した荒銅のほとんどが大坂へ運ばれ、精製される銅の実に1/3は、住友家の泉屋が手掛けていたと言われています。この利益が明治維新後住友財閥へと繋がり、現在も住友グループとして名を残しているのです。
純度の高い金や銀を取り分ける技術があるということは、純度の高い銅をつくることもできるということです。金銀を求めての鉱山開発や精製技術の向上が進んだ結果、日本国内で大量の銅が発見され、その銅を用いた諸産業も発展していくこととなりました。
こうして、日本でで大量に製造された銅を欲しがった国がありました。それが、オランダです。
オランダが日本から持ち出した商品の実に80%強が、銅でした。
当時の銅の写真をお見せしたいのですが、住友史料館さんが権利をお持ちのようですので、ここでは、別子銅山記念館さんの、該当ページリンクを貼っておきます。
https://besshidozan-museum.jp/exhibits/post-64/
この時代、現在のドルのような国際決済用の貨幣というものは存在しません。なので、日本から輸出される銅(棹銅といいました)は、商品であると同時に交換のための貨幣でもありました。にしても、何故これほど大量の銅をオランダは持ち出していったのでしょうか?
オランダは何故銅インゴットを求めたのか
戦国時代に石見銀山が発見されて以降、日本における対外貿易の決済通貨というのは、銀のインゴットでした。このことは、これまで本マガジンでも度々紹介しています。灰吹銀(南鐐銀)というやつです。
銀は、中国はもとよりヨーロッパから南米に至るまで、貨幣として通用する金属でしたので、16世紀国際決済の場で大変重宝されました。
日本の銀は、鉱石の段階から非常に純度が高いうえ、精錬技術も当時の世界トップクラス。当然、世界中の国々から注目を集めていました。「ソマ(石見)」、「ナギト(長門)」、「セダ(佐渡)」などの発音で、日本の銀産地の地名は世界共通語となっています。銀の国外流出量は、17世紀初頭には年間200t近くに上っています。
また、日本では金も産出します。金という金属は、世界中どこの国でも高額貨幣の素材に選ばれています。江戸幕府がつくった慶長小判も、アジア各国に流出しており、植民地時代のインドでは、そのまま貨幣として使われていたりしています。
江戸時代が始まった当初は、国際的な貿易を振興したいという家康の思惑もあり、こうした世界的に需要の高い貴金属の輸出は、ある程度自由に認められていました。
ですがこれらの金属は、慶長の幣制が整備されたことにより、江戸幕府も必要とするようになりました。
そこで代わりに登場したのが、銅です。
アジア諸国は、おしなべて中華という巨大な国の影響下にありました。そのため、日常の取引で用いる小額貨幣といえば銅銭という意識が刷り込まれていました。ところがアジア、特に東南アジアの多くの国々では、銅があまり産出しません。これらの国々は、日本以上の慢性的な銭不足に陥っており、銅を海外から常に輸入する必要がありました。
東南アジアを拠点に自国経済圏を作っていたオランダが、この銅需要に目を向けたのは、自然な流れでした。
オランダ東インド会社の誕生
ここで、江戸時代初期にあたる17世紀初頭から、少しだけ時間をさかのぼり、ヨーロッパに目を向けてみます。
1568年……日本史でいうと、織田信長が足利義昭を擁して上洛を実行した年。この年、ヨーロッパである大きな出来事が起こります。スペイン・ハプスブルク家の領地であり、ヨーロッパ経済の中心地であったネーデルラント諸州の人々が、スペイン・ハプスブルク家に対して反乱を起こしたのです。
いわゆる、80年戦争の勃発です。
この当時のスペイン・ハプスブルク家の王は、ヨーロッパ、中南米、アジアをまたにかける大帝国を支配し、当時世界最強と恐れられていたオスマン帝国をも退けたフェリペ2世。
このフェリペ2世。非常に有能な王様だったのですが、敬虔すぎるカトリック教徒でもあり、そのことが80年戦争のきっかけとなりました。彼はルターの宗教改革によって誕生したプロテスタントの信仰を、不道徳なものと考え、弾圧をしました。
有名な禁書目録(カトリックの教えに反する書物リスト)を発行したり、フランスで起こったカトリックとプロテスタントの内戦に、カトリック側として参戦したりしています。
フェリペ2世のプロテスタントに対する弾圧に、比較的プロテスタントに改宗した住民の多かったネーデルラント諸州の人々が反発。スペインからの独立を求める大戦争が始まったのです。ネーデルラント地域は16世紀におけるヨーロッパの商業の中心地でしたので、長期間の戦争に耐えられるだけの資金はありました。
そのため、戦争が終わる気配は一向に見えませんでした。
1580年、イベリア半島でスペインと領土を二分していたポルトガルが、フェリペ2世の軍門に降ります。この当時、ポルトガルは海洋国家として、ネーデルラントの一歩先を言っていました。1543年に日本に鉄砲を伝えたのも、ポルトガル人ですし、1549年に日本へキリスト教を伝えたのもポルトガルです。これがどういうことかというと、東南アジアで産出する香辛料の輸入ルートは、ほぼポルトガルが寡占状態にあったということです。
1581年に「ネーデルラント連邦共和国」として独立を宣言した諸州連合でしたが、スペインのポルトガル併合によりその前途に、暗雲が立ち込めました。
ネーデルラントは先述の通り、ヨーロッパ随一の商業都市です。その経済力は、80年戦争中もちっとも衰えることはありませんでした。ところが、16世紀ヨーロッパにおける目玉商品であった香辛料の仕入れルートがすべて、対立するスペインの手に渡ってしまったのです。ネーデルラントの商人たちは、焦りました。
そこで、ネーデルラント商人たちは複数の会社で出資しあい、独自に東インドまでの航路の開拓を始めます。
1597年、文禄の役で日本が朝鮮へ出兵していた年。ついにオランダもインドネシアのジャワ島のバンテンとオランダ本国間の往復航海を成功させました。
ところが、別の問題が発生しました。航路開拓のために一時協力は行なったとはいえ、基本的には船団の出資者は民間商人たちです。貿易商は生き馬の目を抜く世界。航路が開拓されたとなれば、彼らはこぞってインドネシアまで船を出し、大量の香辛料を持ち帰りました。売れないとなれば廉売競争を仕掛けました。香辛料の価格は一気に下がってしまい、採算割れが起こったのです。
ネーデルラントの産業の柱となるであろう貿易産業が、いきなりピンチを迎えてしまいました。
しかも翌年、それまでネーデルラントを支援していたプロテスタント国家のイングランドが「イギリス東インド会社」という、国家に管理された貿易専門の会社を設立しインドの支配に乗り出しました。ようやく航路を確保し、独立宣言も行い、これからという時になり、数少ない友好国が最大のライバルへと生まれ変わったのです。「本当に、新しい国はやっていけるのだろうか」とネーデルラント国民は不安に陥りました。
1602年。ネーデルラント連邦共和国の有力商人は一堂に会してこの問題に対処します。
①オランダ商人間での、無意味で過剰な価格競争をやめる
②貿易のための新会社を、共同出資の形で設立する
③新会社の売り上げのうちいくばくかは、出資額に応じて、配当する。
世界初の株式会社「オランダ東インド会社」はこうして誕生しました。
貨幣の発行権から開戦権までもっていた特殊な会社
イギリス東インド会社は、国王から特許を受けた特許会社です。現在の言い方でいうなら、合本会社と言い換えても良い。国家から特別許可状をもらい、ひとつの目的(貿易なら貿易)に対して他社より特権的な力を行使することが認められていました。が、これはあくまで、王や議会といった行政機関の決定の範囲内です。また、特権的な権利の行使方法に際しては、王や議会など出資者が口を出すこともありませんでした。
対して、オランダ東インド会社は株式会社です。現在の株式会社と同じく、株主の意向で組織運営は行なわれます。そして、オランダは王であるフェリペ2世から独立を目指して作られた国家ですので、株主らよりも強い力を持つ権力者が存在しませんでした。そのため、この会社は、開戦を決定する権利、植民地の行政を行う権利、植民地で貨幣を発行する権利という、国王しか本来持てない権利を有しており、設立当初からかなり暴走をしています。
会社が設立されたその年に、オランダ東インド会社は東南アジア各地のポルトガル植民地やイスラム系の小国に対して、戦争を仕掛け始めます。これはネーデルラントの議会が決めたことではなく、イギリスの私掠船免状を真似て会社の方針として始めたことです。(もちろん株主の中にはネーデルラントの政治家も含まれていましたが)
私掠戦とは、敵対国を弱体化させるため、イギリス王室が免状を与えた船に限り、敵国の船に海賊行為を仕掛けてよいという制度。王室の権威と国家としての政策があったうえでの行為なのですが、オランダ東インド会社は私利私欲のためにこの制度を利用しています。
タイミングが悪いことに、オランダ東インド会社がめちゃくちゃやり始めた時期は、スペインの没落時期と重なっていました。一地方の反乱と高をくくっていたフェリペ2世の思惑とは裏腹に、80年戦争の名の通り、戦争は長引きスペイン本国の経済を圧迫し始めました。
1588年には、無敵艦隊と恐れられたスペイン艦隊が、イングランドとの海戦にも敗れており、その再建にも莫大な費用が必要となっています。
スペインといえば、南米の植民地で産出した銀や金を原資として様々な貨幣を発行した国家でした。南米からあまりにも大量に金銀を採掘できたため、植民地現地でも、銀塊や金塊を適当に切り分けて貨幣として使用させたコブ・コインが流通していましたが、財政がひっ迫したためこれら金銀貨幣は、戦費として諸外国に売却せざるを得なくなります。
その穴を補填すべく金銀貨幣の品位はどんどんと下げられ、しまいには銀貨と銅貨がほとんど品質的に変わらないレベルにまでになってしまっています。
1598年、フェリペ2世が亡くなると、スペインはついに金銀貨の品位向上を諦め、銅貨を本位貨幣とする、銅本位制を導入してしまいました。そんな状況でしたので、ポルトガルがいくら東南アジアでオランダ東インド会社に苦戦していようと、スペインは応援を派遣することなどできませんでした。
東南アジアの香辛料貿易の支配者であったポルトガルの植民地は次々とオランダ東インド会社の手により攻略されていきます。1609年、三浦按針の紹介で長崎平戸に商館を持つことを許された国は古くから日本に出入りしていたポルトガルではなく、新興のプロテスタント国家であるオランダと、イングランドになっていました。
東アジアから東南アジアでの香辛料貿易の独占にほぼほぼ成功したと思われたオランダでしたが、彼らはあくまで利潤を追求する商人の集団ですので、この程度で止まることはありませんでした。
1619年には、ついにインドネシアのジャカルタを占領。バタヴィア要塞(政庁)という東南アジア支配のための拠点を建設してしまうのです。このバタヴィア政庁が、オランダの東アジア貿易における中枢となっていきました。ここを拠点に、オランダ東アジア会社は自社の商売敵になりそうな貿易船を徹底して攻撃し、乗組員を殺害し、略奪を繰り返しました。相手は、ポルトガルに限らず、インドや中国・清、はては、日本船にまで及びます。
そのあまりにものあばれぶりに、1621年には、江戸幕府から正式に「海賊行為をやめろ」という通達がオランダ政府に対して出されています。
さて、この頃になりようやく、オランダ人は日本から金銀とともに、銅の購入を始めます。植民地内にしろ、貿易先のアジア諸国にしろ、アジアで銅が貨幣素材として高い価値を持っていることに気が付いたのです。オランダ東アジア会社は、植民地内では自分たちの手で日本銅を使って作った銅貨を使用させ、そうでない国に対しては、貨幣素材として日本銅そのものを売りつけました。
ですが、この頃の銅取引はまだあくまで副次的なものであり、砂糖や香辛料を積むスペースに隙間ができたら、銅も詰め込むような形での輸出がおおかったようです。
ヨーロッパで脚光を浴びる日本銅
オランダ東インド会社の暴虐はとどまることを知りません。1622年、ポルトガルが支配していたマカオに軍隊を送るも、敗戦。すると、航路を東に向け
当時、無主エリアだった台湾を勝手に支配してしまいます。翌1623年には、同じプロテスタント国家であるイングランドにも手を出し、インドネシアモルッカ諸島の、イギリス東インド会社支店を襲撃、職員を皆殺しにしてインドネシアからイングランド人を追い出してしまうのです。
東アジアから東南アジアにかけての貿易の安全性を確保できないとなったイギリス東インド会社は、これを機に長崎からも撤退。以後、日本のヨーロッパでの交易相手国はオランダに限定されることとなりました。
さて、同じころヨーロッパでは、スペインの銅本位政策がついに限界を迎えようとしていました。銅の在庫がつきてきたのです。
ネーデルラントと戦争を続けていたスペインでしたが、本位貨幣たる銅貨の素材を手に入れるために、ネーデルラントのアムステルダムで開催される銅の取引市場へ参加しなければならなくなりました。当時もっとも多く発行されていた銅貨はこんな感じです……。
銅はそもそも、鉄砲の部品から部屋の調度品。なにより、大型船の船底板と、大航海時代になってから需要がものすごく高まっていました。そこに、落ちぶれたとはいえ超大国スペインからの買い付けです。当時、ヨーロッパで良質な銅を産出していたのは、北欧のスウェーデンやノルウェーでした。両国は、これ幸いにと銅価格のつり上げを行います。ヨーロッパ全体で銅の高騰が起こり市場は混乱していました。
1624年、オランダ東インド会社バタヴィア政庁所属のガレー船が、本社に内緒でこっそりとヨーロッパに日本産の銅を持ち込みました。この日本銅が、銅の高騰があったとはいえ、ヨーロッパ産の銅とそん色のない高値で取引をされたことに、ヨーロッパ中の銅仲買人は衝撃をうけました。
何より驚いたのは、オランダ東インド会社本社です。バタヴィア政庁に対して、すぐに大量の日本銅を輸入して本国へ持って来いと指示を出します。
実は、日本の銅はヨーロッパの銅と比較して、それほど品質は劣っていなかったのです。ネーデルラントは長崎で唯一貿易を許されたヨーロッパの国でしたので、うまくいけば、高値で売れる日本産の銅輸入を独占できる可能性がありました。
とはいえ、前述の通り銅がほとんど産出しない東南アジア諸国にとって、日本の銅はかけがえのない商品であり、わざわざヨーロッパに輸送しなくとも高値で売れる商品でした。悩んだ末バタヴィア政庁は、アジア諸地域で取引した余剰分に関してはすべて本国に送ることにしています。本社の求めた量には到底及びませんでしたが、それでも日本銅は大量にヨーロッパ市場へ持ち込まれ銅価格の安定に一躍買いました。
この時代になると、アフリカや南アジアからもヨーロッパへ銅の輸入が始まっています。ですが、それらの品質はヨーロッパ産と比較するとかなり劣っていましたので、脅威にならないと北欧2か国はタカをくくっていたようです。そこに、ほとんど北欧産の銅と変わらない品質の銅が突如現れたのです。
当時のスウェーデンの政治家であったド・へ―ㇽは、1629年に日本銅について以下のようなな記録を残しています。
「スウェーデン産の銅ほど質は良くないが、アムステルダム到着後すぐに買い手が付く。これが、銅価格下落の一原因となった」
と。
北欧2か国は銅価格を再び引き上げようと、1633年から、自国産出の銅の一部を国庫に貯蔵するようにしました。ですが、日本を筆頭に世界中から銅がアムステルダムへ集まりいはじめたことや、ついにスペインが質の悪い銅貨の鋳造を停止したことによって、銅価格は下落をはじめてしまいました。
いわゆる鎖国の完成と日本銅の輸出禁止
ヨーロッパの銅市場が、日本銅の登場に色めきだっていたころ、そんなことはつゆとも知らない江戸幕府は、1633年に銅の輸出を禁止してしまいます。これは、1636年に発行されることとなる寛永通宝の鋳造準備のためと考えられています。
また、翌年には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、いわゆる鎖国体制を完成させ徹底的な管理貿易時代へと入っていってしまいます。日本から銅を入手したい時期に、オランダ東インド会社は銅を簡単に手に入れることができなくなってしまいました。当時のオランダ商館員が、寛永通宝の発行に対して文句を言っている記録なども残っています。
それでも日本は、オランダが独占している市場でしたので、日本から撤退する気はありません。東南アジアのように、一企業が武力で制圧できるような小国でもありませんでしたので、徳川幕府との良好な関係を構築しようと1638年の島原の乱に際し、幕府には武器を支援していますし、日本に残っていたカトリックの宣教師(ポルトガル人)を追い出すための工作も行っています。
ですが、このころからオランダ東インド会社にとっての悪夢が始まります。
いままでのやりたい放題がたたってかオランダ東インド会社は、世界中でかなり嫌われていました。1643 年、オランダ東インド会社のカンボジア支店が現地住民により襲撃に合い、職員が惨殺されます。オランダ東インド会社は、カンボジアを撤退し、中国大陸側での交易拠点を失います。
さらに、1652年には、1623年にインドネシアモルッカ諸島を襲った件の報復から英蘭戦争が勃発。このあと3次にわたる戦争へと飛び火してしまい、大きな打撃を受ていくこととなります。
さて、1646年。ようやく寛永通宝の流通がひと段落した日本は、銅の輸出を再開します。この時、オランダ人の手によりヨーロッパに持ち込まれた日本銅は、名実ともに、世界最高品質のものと認定されました。
輸出が行われなくなった15年程の間に、日本の銅吹職人たちは、さらに技術を磨き上げていたのです。この超高品質の銅には、ヨーロッパだけでなく中東や、アフリカなど世界中から買い手が現れました。
オランダ東インド会社本社からは、「日本銅をアジア市場に一切回さずすべてアムステルダムへ回せ」という命令まで出ています。もっとも、掛け売りが貿易の基本だった時代にそのようなことができるわけもなく、日本銅は世界中へ輸出されていきました。
この頃になると、世界中の植民地で砂糖の栽培が安定してしまったがために、植民地を利用した三角貿易の主要産品だった砂糖の価格が急落しており、輸送コストを賄えなくなってきています。その穴を埋めるために、ますます日本の銅の人気が高まりました。オランダ東インド会社が日本から輸出した品物の金額の80%強が、銅による利益となりました。
オランダ東インド会社はさらに銅を独占しようと、長崎出島で商売をしていた清国商人とももめ事を起こし始めます。オランダが日本との交渉権をどくせんしていても、清国人経由でヨーロッパに持ち込むイングランドや、フランスの活動を止めることはできなかったからです。
オランダ東インド会社は、清国人が銅を買う前に、すべての日本銅を買い占めてしまおうとしましたが、この計画は察知され実現には至りませんでした。
長崎貿易銭の登場とオランダ東インド会社の衰退
同時期、日本では日本で、新たな問題が生じていました。あまりにも日本銅の品質が上げりすぎた結果、一般庶民が使用するために鋳造した寛永通宝を、銅地金としてそのまま輸出してしまう外国人が増えてしまったのです。もちろん、この行為にもオランダ東インド会社は関与しています。
オランダ東インド会社にとっては、銅地金としての価値はもちろんですが、植民地の貨幣政策のために、銅を再加工する手間賃が省けるというのも、寛永通宝の密輸のメリットでした。
国内の寛永通宝の数が急激に減ったため、1659年、幕府は寛永通宝ではない、貨幣型の銭貨を鋳造し、これを輸出用として外国人に売り始めます。「長崎貿易銭」と呼ばれます。
銭文は、明代以前のものから独自のものまでさまざまですが「寛永通宝」という文字だけは使用を禁止されていました。ですが、長崎貿易銭を少数作ったところで、寛永通宝の流出に歯止めはかかりませんでした。
結局、1660年、江戸幕府は再度銅の輸出に制限をかけはじめました。今度の制限には、明確に寛永通宝の持ち出し禁止の一文が追加されています。
いままでだったら、幕府のこうした貿易制限に対してオランダ東インド会社は一応、遺憾の意を述べることにしていました。ですが。この時はほとんど苦情が出されていた記録がありません。
理由は1661年に起こった「鄭成功の乱」です。
鄭成功は、明の役人であった父と、日本人の母との間に生まれた中国人です。彼は、清による漢民族の支配に我慢がならず、明の再興を掲げて清に反旗を翻します。が、大陸で敗北。いきなり中国全土を股にかけ戦いを仕掛けるのは得策ではないと考え、台湾に渡り、再起を図ったのです。
台湾は、オランダ東インド会社の植民地でした。鄭成功は圧倒的な武力で台湾に根付いていたネーデルラント人をせん滅。男は皆殺しにし、女は性奴隷として一生を終えさせるという徹底でした。
過剰に見えるかもしれませんが、アジアにおけるオランダ東インド会社はそのくらい憎まれていました。
さらに、この翌年第二次英蘭戦争が始まります。この戦争で、ネーデルラントは勝利し、パンダ諸島というイングランドのインドネシア植民地を手に入れました。このパンダ諸島は、インドネシア有数の香辛料の産地であり、スパイス交易をネーデルラントが独占できた、と当初東インド会社は喜んでいました。
ですが、実際の所、イングランドはすでにスパイスの種子を国外へ持ち出しており、他の植民地での栽培に成功していたのです。オランダ東インド会社の植民地貿易は、徐々に暗礁に乗り上げてきました。
頼みの綱である日本銅の持ち出しは、江戸幕府により取り締まりが厳しくなっており、思ったほど利益を得られなくなっていきます。そうこうしているうちに、イングランド植民地のインド一帯で銅鉱山が発見され、銅の価格の下落も起こってしまいます。
1670年には幕府より銅輸出の解禁令がだされますが、もはや、ヨーロッパの銅市場での販売価格だけでは、輸送コストをペイすることは不可能になっていました。
やむなく、オランダ東インド会社は、ヨーロッパへの日本銅輸出の数を絞り、比較的近いアジア圏内で日本銅の売買を行い始めました。ですが、ここにとどめの事件が起こります。
インド・ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブの方針転換です。
アウラングゼーブは、ムガル帝国の最大版図を築いた王として知られていますが、それは言い換えると、安定していた帝国で戦争を繰り返した王ということでもあります。イスラーム法に則った彼の治世は異教徒であるヒンドゥー教徒に厳しく、多くの民族の離反を招きました。ジャート族は、インド領内で首都へ物品を輸送する商人の隊列を、無差別に襲うようになっています。比較的安定していたインドでの商売が急に危険となり、東アジア・ヨーロッパ間航路の中継地が機能しずらくなりました。
南アジア最大の市場・ムガル帝国の混乱は、当然貿易にも不調をきたします。結局、アジアの航路全般が不調となり、1680年以後10年間は、オランダ東インド会社からヨーロッパへ日本銅が持ち込まれたという記録はありません。そうこうしているうちに、1686年となり、日本は貿易相手国に対して年間に輸出できる額に制限を設けると通達を出しました。
銅の独占は失敗のうえ、輸出規制がかかる。航路は確保できない。香辛料は値下がり。砂糖はもはや希少品でもない。植民地は現地人に奪い返される。17世紀末、オランダ東インド会社にとって東アジアで貿易を行う旨味はほぼ無くなっていました。
オランダ東インド会社としては、出島の商館をたたんで、新たに手に入れたアメリカ大陸の植民地経営に注力をするという選択肢もありました。ですが、そうもいかない事情が生じます。清の各地ににイギリス東インド会社が続々と進出してきたのです。
実はイングランドは17世紀初頭の段階で、ムガル帝国よりインド洋に浮かぶ島・マドラス島を購入しており、そこを拠点として東アジア貿易をしておりました。つまり、ムガル帝国の混乱を受けずに安心して東アジアと交易を行えていたのです。
清に拠点があるということは、清を通してマドラス経由で日本の銅を持ち出すことができるということです。すると、オランダ東インド会社が撤退してしまえば、ヨーロッパでの日本銅市場をすべて奪われてしまう可能性があります。先述の通り英蘭戦争の影響もあり、両国の関係はまだ険悪でした。
輸出量に制限がかかったため、目標額を達成することは不可能でしたが、それでも日本銅の世界での人気自体は堅調でした。オランダ東インド会社は、どうしても日本から撤退するという判断ができませんでした。
結局オランダ東インド会社は、本国にかわりアジア各地の植民地での貿易や行政権を維持し続けました。ですが、18世紀に入るとイギリスの勢いの前に完全に飲み込まれ、貿易市場での存在感を失ってしまいます。また、それまでのやり方が議会でも注目されるようになり、徐々にその特権ははく奪されていきました。18世紀末にナポレオンの手により本国が滅びてしまうと、そのままなし崩し的に解散させられます。
こだわり続けた日本で、幕末の動乱にもかかわることはできず、気が付けば、オランダ東インド会社が目指した地位にはイギリスとアメリカが収まっていました。
利に目ざといオランダ商人の目をくらませ、判断をあやまらせたほど、日本の銅がもたらした利益は莫大だったというそういうお話でした。