日本の公鋳貨幣8 「長年大宝」
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あっけなく裏切られた平和的な皇位継承
「承和昌宝」発行からわずか13年後の承和15(848)年、新たな貨幣が発行されました。この銅銭を「長年大宝」と言います。発行した時期の天皇は仁明天皇。嵯峨天皇の息子であり、先代の淳和天皇の甥に当たります。
平城天皇と桓武の親子仲が悪かったことにより政局が混乱したことから、残った桓武の息子達は兄弟間で交互に皇位を継ぐようになります。この後も、お互いの息子を交互に皇太子に任命する事で、兄弟間や親子の喧嘩を失くし、安定した皇位継承を狙ったのでしょう。
ですが、ここに隙が生まれました。
そもそも祖父と親の喧嘩から生じたルールを、子ども世代まで引き継ごうということに無理があります。仁明天皇が即位した後、皇太子は淳和天皇の息子である恒貞親王となったのですが、仁明天皇は自らの息子に皇位を継がせようと考えました。この仁明天皇の思いに、嵯峨天皇の政権から力をつけてきた藤原北家の当主・藤原良房が答えます。良房は妹を仁明天皇に嫁がせており、その間に甥が一人生まれていました。
こうして息子を天皇に就かせたい仁明天皇と甥を天皇にしたい良房の思惑が一致しました。
恒貞親王は、敏感にこの動きを察知します。暗殺されてはたまらないと、嵯峨上皇や仁明天皇に皇太子の辞退を申請したのですが、それは認められませんでした。そうこうしているうちに、朝廷内で恒貞親王の後ろ盾となってくれていた嵯峨上皇と、父の淳和上皇とが相次いで亡くなってします。
恒貞親王を守ろうと、幾人かの貴族が都落ちを計画しましたが、承和9(842)年、これらの計画がばれ、恒貞親王含む多数の貴族が捕えられ処罰されました。これを「承和の変」といいます。承和の変は、藤原氏の他氏排斥事件の最初とされ、以後、藤原北家は天皇の外戚として力を発揮するようになりました。
恒貞親王は廃太子され、出家し僧として余生を過ごしました。
再び発行の理由に奇跡が用いられた貨幣
仁明天皇はこの変以降、数多くの貴族や女官を処罰し宮中から追放していきます。これは、仁明天皇の意図だったのか、はたまた藤原良房の策謀だったのか。いまとなっては歴史の闇の中です。承和15(848)年には、ついに良房は右大臣へと昇進し、独裁体制を築き上げます。長年大宝はこの良房独裁体制が確立したのちに発行された貨幣となります。
本貨幣の発行理由について『続日本後紀』巻18嘉祥元年9月19日の記録を意訳します(承和15年は6月13日に改元しています)。
『「6月13日に太宰府から白い亀が献上されるという、嘉祥(慶事)を天が与えてくれたため、改元をした。それなのに、旧銭を改めないのは措置としておかしいのではないか? 直ちに貨幣を改鋳して改め、新銭1旧銭10の割合で通用させよ」との詔が仁明天皇から出た』
具体的に1対10の通用割合を定めていることから、財収増加が主な狙いだったのでしょうが、本貨は、白い亀が献上されたから作ったという理由付ががなされています。貨幣発行の根拠を慶事に頼った所は、初めて貨幣を発行する際に、神の力に頼らなければならなかった和同開珎と同じです。神威を借りなければならないほど、貨幣の通用力が落ちていたということか、もしかしたら、天皇ではなく藤原良房が発行を行ったことで、貨幣の発行の根拠が弱いと考えられたのかもしれません。
では、実際のところこの貨幣が大量に作られていたかと言うと、決してそのようなことはなかったようです。公的な記録上は年1万1000貫製造となっていますが、実際のところこの10分の1しか作られていなかったと、『類聚三代格』に記されています。日本銀行金融研究所の試算によると、本貨幣は総生産枚数でも約3万〜4万貫文しかつくられていなかったと見られています。
この頃になると、国内の銅の産出量が極端に減少しています。そのため新たな銭は古い銭を回収し溶かし直して製造する必要がありました。少し時代は戻りますが承和元(834)年の太政官符に『旧銭既に尽き、銅の鋳るべきものなし』と記されています。このことも本貨の生産枚数が下落した理由とみられています。貨幣による発行差益を狙うには、大量発行し普及させる必要があるわけですが、そもそも朝廷には、発行差益を十分に得るために必要なだけの量の銅の保有がなかったことがわかります。