日本の公鋳貨幣44「寛永通宝 二水永」
はじめに……『寛永通宝』はややこしい……
さて、ついに手を出してしまいます「寛永通宝」です。
新たに古銭に目覚めた新人が最初に手にした1枚であるとともに、もはや老境に達した古銭仙人たちが、最後に集めている貨幣かと思います。寛永通宝をまともに調べている在野の方々には頭が下がる思いです。
当然私などはまともに分類もできないレベルです。が、幸いこのnoteでは、お金の分類法よりは、鋳造された歴史的背景や経済動向などに注力しておりましたので、寛永通宝もその視点で解説していきたいと思います。
細かく分類法が知りたいという人は、この辺りの本を、古銭屋さんで手に入れるといいと思うよ。
といいつつ、今回紹介するのは、「寛永通宝」ではありません。
寛永通宝のスタートは私鋳から
銭貨不足に苦しむ徳川幕府がとってきた政策は、「①限りなく状態の悪い銭を除き流通している銭貨を等しく扱うこと」と「②撰銭を禁止すること」でした。
状態の良い銭を新規に作ると撰銭を誘発しかねないため、撰銭令の取り締まりが過激になるに従い民間での私鋳は自然淘汰されていったようですが、そもそも法令には私鋳を禁ずる項目はありません。
実はこのころ、とある地方でかなりの規模で銭の私鋳が行われていました。
その地方とは水戸藩(現座の茨城県一帯)です。水戸藩は、戦国時代から東日本における貨幣の私鋳の一大産地であったことが知られています。どのくらい私鋳が盛んだったかというと、文禄3(1594)年に、この地を治めていた戦国大名佐竹義宣が、撰銭令を発令し私鋳銭の取り締まりを行っていたようですし、慶長19(1614)年にはお隣の南部藩で「水戸銭」という銭貨を使用していた記録が残っています。
さらに、水戸藩は慶長8(1603)年から、徳川家康の愛息子である徳川頼宜が入封。のちに御三家として扱われるような特別な藩となっていきます。幕府本体と極めて近しい藩だったと考えてよいでしょう。この水戸藩にて、幕府が公式に発行するより前に「寛永通宝」の銭文を持つ私鋳銭が作られていました。
俗に「二水永」と呼ばれる寛永通宝です。
公鋳の寛永通宝と異なり、「永」の文字が「二」と「水」の字を足したように見えます。誰がみてもわかりやすい特徴ですので、本貨が公式の寛永通宝でないであろうことについては、江戸時代の古銭家たちも把握していました。草間直方は『三貨図彙』の中で本貨について、
としています。宇野宗明の『続化蝶類苑』でも
としています。
本貨が、寛永通宝発行より前に作られた私鋳銭であると判断しているのは、当時の一般常識であったようです。実は、江戸時代の初期から、「寛永通宝 二水永」は水戸で作られているということを記した書物が多数出版されていました。撰銭は禁止されていたけれども、私鋳は禁止されていない時代ですので、どうどうと、こうしたことが書かれているわけです。
その詳細は、江戸幕府の書物奉行も務めていた近藤重蔵(正斎)が幕府に献上した自身の著作『銭録』に、簡潔にまとまっています。
近藤正斎に関しては、歴史の教科書に載るような人ではありません。が、長崎奉行として外交で活躍し、後に蝦夷の開拓を実行。北方防衛の重要性を説き、アイヌとの融和政策を進めようとした最初期の人です。
本来はもっと大きく取り上げられてよい活躍をしているのですが、後に息子が殺人事件を犯したため責任をとらされ蟄居・配流。幕府の表の記録からは消されていったという経歴をもっています。
読書家として知られ、自宅を図書館に改装。外交含むあらゆる知識を貯めこんだため書物奉行にも抜擢され、著作も百じゃ数えきれません。が、先述のような理由で著作の多くは散逸しており、近代になるまで再注目されていませんでした。
古銭マニアには、数々の不思議貨幣を図入りで紹介した図鑑『金銀図録』の著者として知られています。
ここからは、正斎が『銭録』に記録している「寛永通宝 二水永」の記録の書き下しとその説明です。
とのことです。ここで上げられている寛永通宝は、現在も、褒賞用の寛永通宝としてオークションなどに出品される 「寛永通宝元和手」のことでしょう。
鋳造理由が世の中の為ということからもわかる通り、撰銭による銭不足に水戸の人も困っていたのです。佐藤新助という豪商が、どのような人なのかはよく分かっていませんが、少なくとも幕府に訴え出ることができるくらいの財力を持っていたことは間違いないでしょう。
そして、ここが大事なポイントですが、この新しい寛永通宝は幕府の許可を得て作っているということです。水戸藩という特殊な事情があったとはいえ、私鋳を公に認めていたとすれば本貨はある意味、公鋳貨幣とも言えるのではないでしょうか。もっとも、何故か幕府や水戸藩の記録にこの、許諾を出したという記録がないため、一般的に本貨幣は公鋳とはされていません。
ということで、親子に二代わたり、この「二水永」は鋳造されていたようです。
当初は水戸藩限定の通用だったが周辺に流通
本貨幣は、恐らく水戸藩内限定通用を前提に許諾された銭貨であったはずです。が、それまでつくられてきた私鋳銭と比較してもきわめて良質であったため、どうも、通用銭として黙認をされていたようです。時折、銭さしから本貨が発見されることもあります。
水戸藩士・小宮山昌秀が記した『農政座右』という記録には、本貨の出現をきっかけとして、全国的に同様の銭座開設申請が行わら事が記録されています。水戸産とされている本貨幣のすべてが、水戸鋳造と断言できない理由です。
基本的な構造は、後の寛永通宝と同じなのですが背面に「三」または「十三」の文字、もしくは一つの点が打たれています。これは、それぞれの鋳造年である寛永三年と寛永十三年を表している(点は、その中間年製造を表している)と伝わっていますが、証拠となる資料はありません。
ひとつだけ言えるのは、寛永の初期にこれほどまでに完成度の高いオリジナルの銭貨が国内で作れると幕府に認識させたことが、銭貨政策に大きな影響を与えたであろうということです。