日本の公鋳貨幣1『富本銭』

日曜の麒麟がくる、まさかの録画ミスにより撮れていなかったため、来週の再放送まで更新は先延ばしにせざるを得なくなりました。だから別の話題を。

そもそも貨幣史と大きくタイトルをつけていましたが、多くの人が日本の貨幣の歴史なんか知らないのではないでしょうか。我々の業界では「皇朝銭」「島銭」「旧金貨」などとさも当然のように使うのですが、よくよく考えるとこうした分類は、教科書では習わない……。ということで、順番に、日本という国家で発行された歴代の貨幣を紹介していってみようかなと思います。

我々が学生の時分は、日本が発行した最初の貨幣は『和同開珎(わどうかいちん/ほう)』であると習いました。ですが、現在の教科書では、日本初の貨幣は『富本銭』であるとされています。

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富本銭の存在自体は、実は古銭収集家界隈では古くから知られており、江戸時代の泉譜(古銭の拓本図鑑)などにも頻繁に見られます。しかし、江戸時代には富本銭は厭勝銭(おまじないようの銭貨型の民芸品)だと思われていたようです。さてさて、それがなぜ、現在日本初の貨幣だと思われるようになったのか、そして、そもそも貨幣がどのようにして本邦に入ってきたのかを簡単に解説しましょう。


なお、今回の貨幣とは、『取引の際に、商品の交換手段として使用され、人々の間で通用するようになったもの』くらいの緩い認識でいてください。

日本に銅でつくられた貨幣がやってきたのは弥生時代ごろです。もたらしたのは中国人でした。中国で貨幣が成立したのは、黄河文明の殷(商)王朝の末期、紀元前11世紀ごろかと考えられています。それ以前から、貝貨と呼ばれるタカラガイの貝殻の加工品を製造していた殷ですが、この貝貨では取引を行っていなかったようで、かわりに貨幣として用いられたのが青銅でした。
王朝の中期から後期にかけて青銅を発明した殷は、青銅を神聖なものとして扱い、様々な神事に用いるようになります。木よりも強度があり長持ちする青銅は、農機具や武器としても需要が伸びていき、中国大陸で高い価値をもつようになりました。やがて青銅を取引の交換手段として用いる文化が生まれます。青銅の物品貨幣化です。

殷が周によって滅ぼされた紀元前9世紀以降は、青銅を用いて作られた加工品が貨幣として使われるようになりました。青銅でつくった貝貨を模したもの、刀剣を模した青銅貨、鍬の刃を模した青銅貨、魚を模した青銅貨と各地域で高い価値があるとされたものを青銅で模した貨幣がつくられるようになりました。

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紀元前247年、秦の始皇帝がバラバラだった中国各地を統一し、これら青銅の貨幣についても統一の規格をつくります。始皇帝がつくった「半両銭」は、青銅製で円形をしており中央に正方形の穴が開いた「円形方孔」と呼ばれるものでした。以降、この形状の銅銭が、東アジアにおける貨幣というものの基準形となります。

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貨幣を中国人から手に入れた弥生人が、これを何と認識していたかは、まだ文字がない時代なので記録もなくよくわかりません。特別なものという認識はあり、それこそ占いや神事の道具として用いていたようです。

やがて、日本に国家が誕生すると、納税がうまれ経済が発展していきます。当初は米や布などが貨幣として用いられていたましたが、5世紀に入ると大陸との交流も盛んとなり、朝鮮半島にいわゆる植民地である任那を持つくらいまでに力をつけていきました。渡来人も多くやってくるようになり、やがって大陸で用いられている貨幣という概念が日本人に理解されるようになりました。

東アジアの実力者として君臨した日本でしたが、天智2(663)年、朝鮮半島で起こった白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島での利権をすべて失います。それどころか、日本本土へ攻め込まれる可能性が飛躍的に高まりました。時の天智天皇は、この危機を外交で乗り越えるべく、急ピッチで唐の制度を模倣し近代国家・日本としての姿をアジア各国に見せつけようとします。

この際初めて、中国式の貨幣制度を導入しようとしたのです。実はこれ以前から民間では円形に加工した「無文銀銭」と呼ばれる銀の加工品が貨幣として使われていたことが判明しています。ですが無文銀銭は、民間人が勝手に使っていたものであり、国家として整備したものではありませんでした。

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※画像は京都国立博物館より

そのため朝廷が行う貨幣制度の統一には邪魔なものと見做され、『日本書紀』の天武天皇12(683)年の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と使用を禁じられています。さて、銀銭にかわりこの年から使用を強制された銅銭が「富本銭」であると見られています。

かつて、富本銭が厭勝銭と考えられていた時代には、天武天皇12(683)年の記事は日本書紀の記述ミスであると考えられていました。というのも、最初に発行された和同開珎には、銀製のものも大量にあるからです。ところが、平成11(1999)年、奈良県の飛鳥池遺跡の発掘調査にて、この記述が間違いでなかったことが判明しました。

富本銭の、官営鋳造工場が見つかったのです。

江戸時代から、富本銭と和同開珎の銅質が似ていることを看破していた人は多くいました。ですが、富本銭がほとんど見つかっていなかったことや、和同開珎と異なり日本書紀にその名称が載っていないことから、誰もがこの銭が大量生産されたとは考えていませんでした。その大規模鋳造工場が見つかったのです。おまけに、発掘された地層も決定的でした。

この鋳造工場が発掘された層の上の地層から、飛鳥寺東南禅院の瓦を焼いた窯が見つかっていたのです。この禅院は文武天皇4(700)年に亡くなった僧・道昭が築いたものでしたので、少なくとも富本銭の鋳造工場は和同開珎が鋳造・発行された和銅元(708)年よりも前の時代からあったことが確定的となりました。おまけに富本銭と同じ地層から発掘された木簡には「丁亥年」と書かれたものもありました。700年以前でもっとも近い「丁亥年」は687年ですので、日本書紀の銀銭禁止の記述とも近いことになります。

こうして考古学の観点から、富本銭が日本の中央政権が初めて大規模に鋳造した貨幣であることが証明されました。ですが、本貨が実際に取引の現場で用いられたかどうかについてはいまだに議論が続いています。発見されている枚数の少なさから、流通していたとしても飛鳥周辺だけだったのではないかと思われているのです。

現在の歴史の教科書では、日本で最初に公式に鋳造された貨幣は富本銭だが、本格流通にいたった貨幣は和同開珎からということになっています。

本貨幣に記された富本という文字は中国の様々な古典に記される「富民之本在於食貨」(民を富ませる本[基]は食貨に在り)から来ている言葉です。左右に描かれた七つの星は七曜星という文様で、占星術などで用いられる「宇宙すべて」を表す記号です。本貨に万民を豊かにするという願いが込められていたことが図柄からわかりますね。


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