日本の公鋳貨幣18『銭不足と信用創造と元寇と』
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元の成立と銭不足の始まり
平安末期から国外に銭貨需要を依存した日本の政府は、自国で金融調整を行う必要がありませんでした。なので、1221年の承久の乱に勝利し日本全国を支配することになった鎌倉幕府も、本来金融政策を行うべき政治リソースを削減し、荘園の整理や分割など国内整備に割くことができました。承久の乱の敗北により権威を失った朝廷はというと、国政の中心業務には携われなくなりますが、主に幕府に代わり外交を行う機関として脚光を浴びることになります。
鎌倉幕府の新体制が安定してきた1234年、中国大陸で北宋を滅ぼした女真族の国家「金」がモンゴルより押し寄せた騎馬民族の国家「元」の手により滅亡してしまいます。日本にとっては銭の輸出先である国家のひとつがなくなってしまったわけです。新たな中国の支配国である元はそれまでの中国の国家と比較すると特殊な国家でした。
元は東ヨーロッパから東アジアまでを横断したモンゴル帝国の後裔国のひとつでしたので、分裂した他のモンゴル帝国の後裔国とシルクロードを使った交易が盛んに行われていました。ですが、ヨーロッパとアジアでは根本的な貨幣体系が異なりました(西洋貨幣と東洋貨幣の成立の違いについての話もどこかでやらないとですね)。
当然、東アジアの「銭貨」をヨーロッパに持ち込んでも売買など行うことはできませんでした。そこで、元が目をつけたのが「銀」でした。元は銀を本位貨幣と定め、銀地金自体は国庫に貯め込み帝国内の他の国家との貿易に用いました。代わりに国民に配ったのが、安くて大量発行が簡単な銀兌換紙幣でした。
「兌換紙幣」という単語は、今多くの人に馴染みがないかもしれません。ここで1枚の画像を見てみましょう。
これは、日本で昭和6(1931)年に発行された日本銀行兌換券20円紙幣です。注目すべきは右に描かれた藤原鎌足の肖像……の左に書かれているこの部分です。
『此券引換に金貨貳拾圓相渡可申候』
「この紙幣を引換に持ち込んできた人には、20円相当の金貨を渡しなさい」と命じている文言ですね。価値の裏付けとして何かと交換できる紙幣を『兌換紙幣』と言います。人類はかなり長い間、紙幣というものが価値を持つのは、そこに何かと交換できる保証があるからだと思い込んでいました。
元はその保証として貯め込んだ銀を使ったのです。元政府は、必ず銀と交換できるからと言い聞かせ紙幣を人びとへ配り、その代わりとして国民が持つ銀を回収して国庫へ貯め込みました。国庫の銀の総量よりも紙幣の額面量の方が多いことがばれ銀兌換紙幣への信用力が落ちると、今度は「生活必需品である塩の売買は紙幣でしか行えない」と定め、塩兌換紙幣へと切り替えることで、安価で製造できる紙幣を主要貨幣として使い続けました。
なので元でも銭は、基本的には不要とされました。むしろ銭は銀の地金を日本から買い付けるための代金として、積極的に輸出されています。鎌倉時代に日本と元のあいだに正式な国交はありませんでしたが、民間貿易は盛んに行われていました。
ですが、元からやってくる銭の総量は徐々に不足していきました。考えてみてください。日本が輸入していた銭をつくった北宋が滅びたのは1127年のことです。元が中国大陸に侵入した1234年の時点で、100年は経っています。おまけに、北宋の後を継いだ「南宋」、「金」、「元」といういずれの王朝もとまともに新しい銭を発行していないのです。
当然、中古銭の残存量は減少していました。おまけに、鎌倉幕府も朝廷も平清盛のように積極的に貨幣を輸入しようとまではしていませんでしたので、鎌倉時代後期には銭が不足し始めました。
自国で通貨を発行しなかった日本の誤算
イギリス連邦に所属する島国の一部などは現在も自国で通貨を発行せず、鎌倉時代の日本のようにイギリスポンドを自国の通貨として使用しています。これは、人口も少なく経済規模が小さい国では、自国で貨幣を発行するよりも大国の貨幣の傘下にいたほうがコストがかからず、メリットも大きいからです。メリットとは、経済大国の信用力を用いて経済活動を行うことができることです。
信用力と書くとわかりにくいかもしれませんので、具体例を上げてみます。Aさんが銀行から1,000万円を借りることになりました。小学生向けの書籍などでは、銀行は預金者から預かった預金口座から1,000万円を集めBさんに融資、返却に際し利子をもらう……と書いてあることでしょう。
ですが、これは完全な間違いです。
正しくは、銀行は1,000万円を預かったという記録をAさんの通帳に記載したあと、1,000万円を振り込んだという記録をBさんの通帳に書き込む、です。お金は1円も動かす必要はありません。極端な話、1円も持っていなくても銀行は何億円でも融資を行うことができるのです。これを、金融用語で『信用創造』と言います。
もう少し、具体的に書きます。銀行という制度は安全にお金を預かりいつでも引き落としに応じてくれるという信用で運用されています。なのでAさんから1,000万円預かった場合、「全額を他人に融資したので払い戻しには応じられません」ということはできません。そこで、「まあ、一度にAさんが口座から引き出すとしても100万円程度だろう」と予測して、100万円だけ現金として手元に残し(「準備預金」と言い何%残すかは日銀により定められています)、残りの900万円は貸し出すという選択をとります。
ちょうどBさんが900万円貸してくれと言ってきました。そこで銀行は、Bさんに900万円の現金を渡す……のではなく、口座に900万円を振り込んだと通帳に記載だけします。実物の900万円は手つかずです。するとどうなるでしょう。
①Aさん=帳簿上1,000万円を所持
②銀行=帳簿上Aさんが預けた現金1,000万円+Bさんに貸し付けたと記載した存在しない900万円を所持
③Bさん=帳簿上借りた900万円所持
ということになります。銀行は、1,000万円預かっただけなのに帳簿上は1,900万円持っていることになるのです。
銀行の信用と帳簿の仕組みを使って貸付を行い、見かけ上の銀行預金を増やしながら貸付を繰り返すことが『信用創造』の正体です。存在しないお金を製造して総資金の何倍ものお金を動かすことができるので、経済を発展させる上では必須の仕組みです。
なぜこのようなことが許されるかというと、融資される先と銀行の間に信用関係が築かれているからです。「Aさんは、●年後までに必ず決められた利率で資金を返却してくれるはず。」「銀行は、●年後も存続し、返却が難しくなりそうな場合も必ず面倒を見てくれるはず」といった相互の信用が、今ではない、未来のお金や信頼に貨幣価値をつけてやり取りすることを許すのです。
融資を行う前に、銀行が行う審査というものは、貸し出し先が信用に足るかを計る作業です。これは逆も然りで、経営が怪しいという噂が立つような銀行は「自分が預けたお金が今後一円も払い戻しされないかも」「全額融資される前につぶれてしまうかも」という不安が生じますので、預金の払い戻しを求める人びとが銀行に殺到し、いわゆる「取り付け騒ぎ」が起きてしまいます。
↑昭和金融恐慌時の取り付け騒ぎ
現在、日本国内に存在している貨幣の80%が、このような信用創造により創出された、本来存在しない貨幣だと言われています。こうした貨幣のことを「預金通貨」といいます。
信用創造の仕組みは国家にも当てはめることができます。銀行=国家、Aさん=銀行だと考えてみてください。国家は貨幣や国債を発行することで銀行に資金を貸付け、銀行は国民からの税を回収しそれを国家に収めるという形で貸付金を返済します。なので脱税は罪として国家が取り締まりますし、国家の信用がなくなると、国民は税として取り立てていた富を返せと暴動を起こします。
イギリス連邦に所属する島国が自国通貨を発行しないのは、あまりにも国が小さ過ぎるため、貨幣を発行しても貸付ける国民や企業がいないからです。このような場合、旧宗主国であるイギリスに頼った方が、経済活動は円滑にすすめられます。
ですが、貨幣を発行できない(信用創造できない)ことには、致命的なデメリットも存在します。それが、緊急時の金融出動ができないことです。
1929年、様々な要因が重なりアメリカで株価が大暴落しました。株のような有価証券は、未来に返ってくることを期待して銀行を通して企業に貸付けるある種の預金通貨です。なので、株価の暴落は人びとに銀行への不信を抱かせ、1ドルでも多く、投資した資金を回収しようと人びとが銀行へ押し寄せる取り付け騒ぎが発生しました。「世界恐慌」です。
↑世界恐慌時のウォール街
この時アメリカのルーズベルト大統領はニューディール政策を打ち出し、公共事業を行い雇用を創出する財政出動と、大規模な金融緩和を行いマネーサプライを調整しいち早く不況から抜け出すことに成功しました。金融緩和とは、金利を引き下げたり、あるいは『貨幣の供給量を増やすことで、給与の額面上昇を引き起こし消費者マインドを呼び起こす』政策のことを指します。なぜ、貨幣の供給量を増やせるかというと、アメリカのドルが『自国で発行する貨幣』だからです。
日本が何百兆円も借金をしても破産することなく、対してギリシャが、あっけなく財政破綻した理由も『自国で発行できる貨幣』の有無が関わってきます。日本は円建てで何百兆円借金しようが、借金と同額円を印刷してしまえばすぐに借金を返すことができます。が、ユーロ経済圏であるギリシャの通貨は欧州央銀行が発行するユーロです。自国通貨がありませんので、ユーロで建てた国債は、ユーロで返す必要があり、だから債務不履行(デフォルト)に陥ってしまったのです。
他の例をあげます。自国通貨発行券を保持するアルゼンチンは定期的にデフォルトすることで有名です。これは、アルゼンチン・ペソに信用があまりにもないためペソ建てで国債を発行しても誰も買い手がつかず、止むなく外国通貨建てで国債を発行しているからです。こうなると、債券の支払いタイミングになったときに、国庫に必要な外国通貨が存在しない可能性が生まれてしまいます。現にアルゼンチンは支払い能力がなくなるたびにデフォルトをしているというわけです。
日本円は、世界的に見ても信用力が高く日本国内だけでなく世界中に日本円での借り手がいます。だから、日本はこれだけ国債を発行してもつぶれることがないのです。
もっとも、それならばと、極端なMMT信者(僕はあの手の人たちは、学者ではなく宗教家だと思っています。きちんと調べれば、MMTをきちんと解説している立派な経済学者さんは山のようにいます)がいうように何千兆円も国債を発行してしまえばいいというわけではありません。
国債を発行しまくったり、貨幣供給量が増えるということは、債券や貨幣の価値が、相対的に下落していくことと同意です。なので、考え無しに発行してしまうと、国民からそれらの債券や貨幣の信頼は失われていってしまうことになります。そのバランスを調整することことこそが金融政策なのです。
自国通貨が発行できる国にはだから、一般企業のような倒産や破綻といったことは起こりません。これは推論ではなく事実であり世界中の中央銀行が認め様々な公式文章で回答しています。確か、日本銀行も同様のことを書いています。貨幣とは、そういった力をもつ魔法の道具なのです。
ここ10年くらい日本政府は財政の黒字化などと歌っていますが、これは政治家の方々が貨幣の本質を理解していないから出る見当違いな発言です。一般企業とは異なる、貨幣が発行できる国家の財政は常に赤字を目指さなければならないのは世界中の経済学者が指摘しています。アメリカもイギリスもフランスもetc、基本的に先進国と呼ばれる国家の財政は常に赤字を保っています!
政府が黒字になるにはどうすればいいのでしょう?それは税収を増やせばいいわけす。
が、ここでよく考えてみましょう。税とは何で納められるのかを?
税は、国家(中央銀行)が発行した貨幣で納められます。国家は貨幣を発行し、それを中央銀行に貸し付けます(国債)。中央銀行はその貨幣を市中銀行に貸付け、そこから企業はお金を借りて活動を行います。この活動の結果、世の中にお金(含む預金通貨)が出回り黒字分がGDPとして数値となって現れます。GDPのうちの数割を政府が税として回収します。
つまり、財政黒字を目指すということは本質的にはGDPを減らすということなのです。貨幣を発行した時点で国家は必ず帳簿上、財政赤字となります。国家が負った赤字が大きければ大きい程、理屈上世の中には貨幣が増え、我々の手元に残るお金も大きくなるので国民は豊かになります。国家が税収を下げて財政赤字を増やせば増やす程、国民の黒字幅は大きくなる、これが国家の財政です。政府というものが国民の代弁者を歌う以上、国家は国民を豊かにする手段を講じるべきなのです。
もちろん、貨幣が市中に溢れすぎると、貨幣の総量が飽和しインフレーションを引き起こしてしまいます。が、そうならないように適度に税金の上げ下げを行ったり、貨幣の発行量を減らすことが『自国通貨』を発行する国にはできるのです!それに、忘れていませんか?今の日本はデフレで苦しんでおり、インフレターゲットを設定しているんです。少なくとも今は、どんどん財政赤字を目指すべきなのです。
何の話でしたっけ?そうそう。自国通貨発行権を持つ国と持たない国のメリット・デメリットの話です。
鎌倉時代の日本は自国で通貨を発行していませんでした。なので、この金融政策がまったく打てなかったのです。宋銭の輸入量が減ると、当然、市場への貨幣供給量は減少しました。すると何が起こるのか。
銭高物安相場が悪化していきます。
銭高物安のことを、現在の我々は「デフレ」と呼びます。失われた30年などと呼ばれる現在の日本の不況と同じ状況です。
平安時代末〜鎌倉時代初期にかけては、銭高が納税に有利と知れ渡ったことにより日本の貨幣経済定着に一役買った銭高物安相場ですが、鎌倉時代後期にはこれが行き過ぎてしまったため、物を売っても安く買いたたかれるだけとなりました。物が売れなくなると庶民の収入は下がりますので、物を買えなくなります。
結果、「需要不足/供給過剰」な時代が始まるのです。
実は、日本は江戸時代付近まで自国で通貨を発行しないため、デフレ不況の歴史が実に400年近く続いた世界でも希有な国家なのです。失われた30年がなんだという話です。
元寇の勃発により止められなくなったデフレ
貨幣が希少な物になってデフレになってくると何が行われるのか。現在の我々とは倫理観も行動規範もまるで違う鎌倉の人びととはいえ、経済感はどうも同じだったようです。そう、「貯金」です。
↑http://www.city.tokai.aichi.jp/21851.htm 愛知県東海市のHPより
これは「一括出土銭」などと呼ばれるものです。鎌倉時代以降の遺跡を発掘すると、割と頻繁に見つかります。見ての通り、紐で通した大量の銭を大型の壷や甕に詰め込んでいます。盗難に合わないように貯金したのか、あるいは銭の価値がさらに上がることを見越して使用を控えたのか。とにかく貯金という文化が広まったため、さらに銭が不足しデフレが深刻化したのです。
さらに事態は悪化します。
中国大陸で金を滅ぼした元はそのまま南下を続け、日本と交易で良好な関係を保っていた南宋と激しい戦いを繰り広げていました。元は、南宋政府が抵抗を続けられるのは、日本が背後に居るからだと考え実に6回に渡り日本に元の冊封体勢下に入るよう使者を送り続けました。しかし、幕府も朝廷もこれを無視し、あまつさえ元からの使者を処刑するようなことを行ったのです。元と日本の関係が決定的に悪化しました。
文永11(1274)年、ついに元が日本へと侵攻を行います。文永の役です。両国の関係が悪化したことで、ただでさえ銭の輸入量が減少していたのに、元からの分の銭輸入が途絶えてしまいました。
弘安2(1279)年には、残った銭の輸入元であった南宋が、元の手により滅亡。国家として銭を輸出してくれる相手がいなくなりました。弘安3年(1280年)、弘安の役勃発の前年には、元政府が名指しで日本への銭輸出を禁止しており、民間の貿易商人の取り締まりも始めています。元と南宋、両国から銭が手に入らなくなったことで日本はデフレがさらに加速していきました。
元寇に勝利した日本でしたが、勝ったからといって新たな土地を得たわけではありません。幕府は、多大な犠牲を払って奮闘した御家人たちに、十分な恩賞を与えられませんでした。教科書ではこうして御家人の不満が高まったことが鎌倉幕府が倒れるきっかけとなったと書かれていましたが、厳密にはこれは理由のひとつで直接的な契機ではありません。中世史の専門家の本を読むと、鎌倉幕府が滅亡した理由は不明というのが現時点での正しい結論のような気がします。
ただし、分割相続を繰り返しで所領が細分化した御家人たちが、貨幣経済の発展に巻き込まれたうえ、デフレ経済に見舞われていたのなら、その窮乏具合が酷い物であったことは想像に難くありません。
こうして日本国内に貨幣経済が定着してから100年足らずで、日本の貨幣制度は1度目の危機を迎えたのです。