日本の公鋳貨幣35「太閤金銀銭」
まさかまさかの年明け早々新型コロナに感染し、1週間自宅療養。体調自体は特に問題がなかったのですが、2週間ほどまったく鼻が利かなくなり、ご飯がおいしくなくなる。なんだか息苦しが続くとまあ大変……。実際インフルの時よりきつかったのですが、それでもワクチンを4回摂取していたためかなりの軽症だそうです。
皆さんも、コロナは風邪だなどと、ゆめゆめ油断をなさいませぬよう。お気を付けくださいませ(泣)。
閑話休題。
豊臣秀吉が作った天正大判は、1枚につき140g超もの金を使用した大型の金貨でした。当時としても、1枚で数百万円クラスに相当するものすごく高額であったたはずで、おそらく大名や秀吉直属の大物、堺の大商人などでないと手にすることがなかったと思われています。
ですが、秀吉には金貨や銀貨を手づから配ったという伝説が多々残っております。一番有名な聚楽第での金配りに関する史料だけでも「御湯殿上日記」「多聞院日記」「鹿苑日録」「維摩会日記」「家忠日記」とつらつら上がってきます。
果たして、そんなに多くの人々に大判を配り歩いたのでしょうか?どうも、これらの記録に描かれている描写と大判のサイズは一致しないようですし……。
実は、秀吉が配り歩いたもの……と目される金貨は多数現存しており、古銭愛好家たちは「太閤金銀銭」といった名称で呼称しています。
裏付けとなる史料が存在しないため、本当に秀吉が作ったものなのか、後世に歴史好きが面白がって作った贋作ではないかは判断ができません。そのため、一般的な歴史の本にはまず乗らない貨幣ですが、過去の分析によると戦国期の金質に近いものを利用して作られており、時代的には適合しているだろうという意見が一般的です。今回は、これら太閤金銀銭をいくつか紹介したいと思います。
おそらくいずれの貨幣も、古銭好き以外は存在を知らないと思います。なお、実物は現存数が少なく、博物館に収蔵されていたり御物になっていたりでなかなか目にすることがありません。古銭オークションに出品された時は目玉商品のひとつとなり、よほどの資産家でないと買えない超高額で売買されています。
太閤円分金
豊臣家発行とされる金貨の中でも最も有名なものかもしれません。現存数は極めて少なく、1枚当たり約4.4gしかないのに300万円以上の値段で売買されています。この1枚4.4gというのは、後の時代に発行される公鋳貨幣である慶長一分金とほぼ一致します。そのため、豊臣政権時代の一分金ではないかと推測されています。この重量の一致と円形という形状から「円分金」の名が付きました。
表面中央に、五三の桐紋が打たれており、それを囲むように5個の桐紋が配されています。
裏面もほとんど表面と同じですが、中央に花押が打たれていることが異なります。この花押は後藤庄三郎光次のものです。光次は徳川家康に仕えて金貨を鋳造した人物です。秀吉が重宝していたのは同じ後藤家でも本家筋にあたる後藤四郎兵衛徳乗でしたので、本貨幣には、豊臣家ではなく徳川家による鋳造ではないかという説が強くあります。私もどちらかといえばそちら派です。ですが、江戸時代から本貨幣は豊臣秀吉の発行した小額金貨として「太閤」の名が付いていたようです。
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黄金分銅金(法馬金)
こちらは厳密には貨幣ではなく、インゴットの類。秀吉は全国の鉱山から送られてきた金銀を、いざという時のために分銅の形にして大阪城内に大量に備蓄していたと伝わっています。その備蓄されていた金銀は、1615年の大坂夏の陣の後徳川家に接収されて、江戸幕府発行の金銀貨へ形を変えていくのですが、いくつかは形を保ったまま保管され続けました。
現物は、皇室の御物に3点。その他、尾張徳川家が保管していたものが300点日本銀行貨幣博物館へと譲渡されています。現存する分銅金はすべて重量百匁(375g)に統一されています。
宮内庁の御物を公開するサイトにて、こちらも高解像度の画像が公開されていました。ここではスクショだけ貼りますので高解像度画像はサイトでご覧ください。
宮内庁 三の丸尚蔵館
特異な形状に見えるかもしれませんが、これは日本が秤で重量を計る時に使っていた分銅の形そのものとなっています。
竹流金
昭和10(1935)年、大阪の淀川の川底から8個の金塊が見つかりました。細緻な菊紋の装飾が施された長さ4cmほどの金塊は、豊臣氏のおひざ元であった大阪で発見されたということもあり、徳川幕府が金貨の制度を整える前に試験的に作られた貨幣であろうと考えられています。もちろん大阪ですので、秀吉が鋳造を命じた可能性が極めて高いとされています。19世紀前半に、徳川幕府が公式記録として編纂した史書『徳川実紀』の中の大坂夏の陣の記録には、以下のような一文があります。
本貨幣がこの記録の竹流金であろうと目されています。実際に秀吉は、手ずから山積みされた金の粒を握り配下の武将に配ったという記録が残っている武将であり、手で握って配れる金塊となると、本貨幣位のサイズがちょうどよいかもしれません。
現在は大阪にある造幣局の博物館に展示されています。また、スクショと、サイトのURLを貼っておきます。なお、同様の形状の金貨じたいは、全国各地で作られていたので、竹流金=豊臣家造ではない事は注意が必要です。
大阪 造幣局博物館より
https://www.mint.go.jp/enjoy/plant-osaka/plant_newexhibition_3.html
菊桐金錠
「錠」という漢字を見た時、現在では真っ先に鍵というイメージが浮かぶかもしれません。ですが、この漢字にはもうひとつ「粒状に練り固める」という意味があります(錠剤の錠はこの意味で用いられていますね)。
東アジア、特に中国では明のころより高額決済には銀塊を秤量貨幣として用いるようになりました。この銀塊は「馬蹄銀」または「銀錠」と呼ばれました。
これ以降、貨幣的な性格を帯びたインゴットを『金属名+「錠」』の漢字で表すようになりました。
造幣局の博物館にはもうひとつ、竹流金の隣に、同時に発見された金塊が展示されています。菊と桐の紋様が打刻されナマコ型の金塊は「菊桐金錠」と命名されていますが、さかのぼっても史料には登場しない貨幣です。この貨幣は、より明確に豊臣氏が鋳造を命じた貨幣と推定されています。というのも本貨幣の重さ164gは、当時の京目10両と完全一致するからです。
京目というのは、秤のことです。全国統一の度量衡がまだ誕生していない15世紀末から16世紀初頭において、近畿圏で使用されていた重量の基準は京で用いていた秤を基準とした京目でした。正確に10両の重さに切りそろえ支払いに用いやすく仕上げていることと、菊と桐という天下人を表す紋様を打刻していることを考えると、個人製作ではなく、大阪にいた権力者。つまり豊臣氏が命じて作らせたものだろうと推定されています。出土場所から「大阪城落城の際の遺物では?」と考えられています。
こちらは、造幣博物館に写真が載っていないので
日本銀行編の『図録 日本の貨幣1巻』より画像を引用しておきます。
永楽通宝 金銭 銀銭
天正15(1587)年、秀吉は自ら九州征伐のために出陣をします。この時、秀吉は権勢を見せつけるべく、金銀で作った銭をお供の首にかけていたという記録があります。今まで見てきた金貨は、紐でまとめることが難しいため、伝説の類と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、実は秀吉がつくったと伝わる貨幣の中には、紐でくくれるタイプの金銀貨も存在しています。
それが、こちら永楽通宝の金銀銭です。こちらの写真は、収集家の方のお宅に伺い金銭の実物を撮影させていただいたものとなります。
永楽通宝は以前解説しましたが、戦国時代におもに東日本を中心に大流通した明製の渡来銭です。明では、永楽通宝の金銭や銀銭を制作しておりませんでした。なので、本貨幣は間違いなく日本国内の何者かが作ったものとなります。金や銀という希少金属を用いているため、銅銭のように大量生産は行なえなかったようで、写真にメモしているように鋳造製も打刻製も混じるようなまちまち具合です。中には、完成品を削って本物とは似ても似つかない書体に仕上げてしまったものもあります。
永楽通宝ですので、中央の穴に紐を通して銭さしとして使うことも可能だったはずで、九州に秀吉が持ち込んだ金銀銭はおそらくこうした、既存の銭を金銀で作り替えたものかと思われます。
この金銀銭も現存数が非常に少ないです。
秀吉が鋳造したと伝わる金貨がほとんど残っていない理由
これらの豊臣家鋳造と推定されている金貨は、とにかく現存数が少ないです。確かに秀吉は、大判を含め貨幣の全国流通を目指していませんでしたので、ある程度数が少ないのは致し方ないことかと思われます。ですが、ここまで極端に数が少ないのはなぜでしょう?
それは、徳川家康のせいと推察できます。
征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康は、豊臣氏と異なり全国統一の貨幣制度を作ろうと考えました。ですが、何故かこれまで日本ではなかなか共通した基準での貨幣の統一は行なえていませんでした。家康は一体何が、貨幣の統一を阻んでいたのか考え、至ってシンプルな結論にたどり着きました。
「和同開珎から続いてきた金銀銅を含むすべての貨幣が、ばらばら各地で流通しているのが悪いんじゃね?」
銭貨の整備はもう少し後となるのですが、取り急ぎ家康は、江戸幕府が定めた金銀貨幣以外のすべてのものの流通を禁止しました。すでに流通している金銀貨幣は、一部の金貨を除いて幕府が回収を行い、同額の江戸幕府の定めた方式の新金銀貨へと鋳造しなおして、持ち主へ返却しました。
恐らく、秀吉が鋳造した金貨の多くもこの回収に巻き込まれて失われてしまったのです。
天正大判が比較的残っているのも同様の理由で推理ができます。実は大判に関しては、江戸時代の大判と等価で通用することが認められていました。
大判を10枚作って10人に渡すより、大判10枚分の金を使って100枚の小判をつくり、100人に渡した方が統一された貨幣の普及は早まります。家康は、労力をかけて大判を鋳造するのではなく、すでにあるものは再利用し、使いやすい小判を製造することを優先したのです。
さて、ということで次回からついに江戸時代。徳川家康の貨幣制度の説明へ移ろうと思います。日本の貨幣の歴史が、本当の意味での幕開けとなるのです。