日本の公鋳貨幣2『和同開珎』
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大河ドラマ『麒麟がくる』が暫くお休み期間となってしまったので、今後はこちらを更新していこうかなと思います。初回の「富本銭」が思ったよりも好評でしたし。ということで、第2回は日本で一番有名なお金についてです。
富本銭の鋳造が始まってから約20年後の和銅元(708)年。朝廷は本格的な貨幣の流通を目指し1枚の銭を発行いたします。これが、かの有名な「和同開珎」です。
富本銭は殆ど流通しなかったようですが、和同開珎の発行に際しては綿密な計画が練られていることが記録からわかっております。その計画は奏功し、朝廷は富本銭よりもはるかに広範囲に本貨を普及させることに成功しました。一度貨幣を発行したものの、大失敗をしてしまった朝廷。それなのにどうして短期間で和同開珎を準備しようとしたのでしょうか?
理由を理解するには、前提として『なぜ国家は貨幣を発行するのか』ということを改めて考える必要があります。
1.国は貨幣によりシニョリッジを得ることができる
『王にだけ許された3つの権利がある。
ひとつは戦争を始める権利。
ひとつは税金を徴収する権利。
そして最後が貨幣を発行する権利だ』
これは、私の師匠である植村峻先生が、お会いする度に口癖のように仰っていることです。前二つは想像しやすいかと思いますが、通貨発行権について意識したことがある人は少ないのではないでしょうか。
国家が貨幣を発行するのは決して善意からではありません。
分かりやすい例があります。
明治6(1873)年に政府がアメリカに頼み印刷し、民間銀行から発行された旧国立銀行券20円は1枚2銭で印刷したという記録が残っています。当時の20円は現在の価格に直すならば40万円相当の超高額紙幣です。対して印刷費の2銭は1円の100分の2ですので約400円といった所でしょうか。その差額は39万9600円です。この金額はどこに行くのでしょうか。
それは当然、発行者の懐の中です。
こうして生まれる利益をシニョリッジ(通貨発行益)といいます。
国家が貨幣を発行するのはこのシニョリッジを得たいという思惑があるからです。貨幣は支払う人物と支払われる人物の間に、『この貨幣には価値がある』という共通の認識があれば、額面が実態価格とかけ離れていても流通します。ですが何でもない紙や金属に、価値があるという共通認識を持たせることは非常に難しい。かつてそれを可能としたのは、それだけの力をもった王(国家)くらいでした。だから、貨幣の発行は王のみの特権とされていたのです。
大和朝廷が和同開珎を発行を焦ったのは丁度この時代に、大規模な財政出動が重なりシニョリッジが必要となったからであると考えられています。大規模な財政出動とは、まず富本銭の時に解説した、対外的な危機。次に、本格的な条坊制を備えた平城京(710年完成)の整備が始まっていたことです。
平城京はそれまでの藤原京などと比べ遥かに大規模な都市であり、完成にあたり多くの人足を全国から導入する必要がありました。全国から集めた人足の衣食住をすべて政府が用意するのは現実的ではありません。そこで、衣食住を揃える代わりに貨幣を与えてほしいものは自分たちで買わせようとしたのです。実際、こちらの方が遥かに安上がりで済みますもんね。和同開珎は1枚が人足一日分の日当であったことが記録からわかっています。
2.和同開珎の発行から分かる当時の朝廷権力
さて、『続日本紀』には、和同開珎の発行の経緯についてどのように書かれているのでしょう。その流れは大きく3つに分かれます。
①慶雲5(708)年1月11日、武蔵国秩父郡から和銅(ににぎのあかねと読む。自然に熟成した銅塊のこと)が発見され献上された。天皇は非常に喜び、元号を和銅へと改元した。
②その4ヶ月後の5月、朝廷は初めて『銀銭』を鋳造した。
③さらにその3ヶ月後の8月初めて『銅銭』を鋳造した。
です。
②と③について何のことかと思う方もいるかもしれません。余り知られていませんが、和同開珎には銀製のものと銅製のものの2種類が存在します。2種は文面や形状は瓜二つですが、当然銀製のものが高額貨幣として扱われていました。
↑和同開珎 銀銭
①②③と時系列順に並べると、慶雲5(708)年1月11日に和銅が発見・献上されたという記録の次が、銀貨の初鋳造であることに非常に違和感を感じます。これは、和同開珎の発行にあたって武蔵国秩父郡から和銅が献上されたことは、さして関係がないからです。遡ると、銅が献上されたという記録は文武2(698)年にもありますので、年号を変えるほどのインパクトが銅の産出にあったとは思えません。さらに、和同開珎は大量に発行されていますので、実際秩父産の銅以外が使われていることの方が多いです。それなのに、なぜわざわざ銅の発見を国史に残し、年号を変えたのでしょう。
そこには極めて政治的な理由が推測できます。
7世紀中期の645年、大化の改新こと乙巳の変により朝廷はようやく天皇の元に権力を集中させることに成功しました。が、まだまだその力は弱くすぐに政敵になりえる豪族に奪取される恐れがありました。そのためこの時代、遷都・改元・皇位継承などの政治的大事業を行う際には、全人民を納得させるだけの奇跡を示さなければなりませんでした。この奇跡を「瑞祥」と言います。
古代の日本の年号を見てみますと、いたるところに瑞祥に関連した改元と、改元とセットで行われた政治的な大事業が記録されています。「珍しい亀が献上された」ことを祝い誕生した元号『霊亀』は、改元後すぐに元正天皇の即位と村の数え方の変更が行われていますし、「陸奥国から黄金が献上された」ことを祝う『天平感宝』は、同年中に、力をつけ始めていた寺院の領地拡大を制限するというかなり攻撃的な法令が出されています。
天平感宝の例からもわかる通り、貴金属の献上は朝廷にとって瑞祥でした。富本銭で失敗した記憶も新しい新貨幣鋳造計画を再度実行するには、奇跡の力に頼る必要があったのです。さらに言うならば、和同開珎発行時の天皇が女帝であったこともこの瑞祥と改元に頼る必要があったことに関連してきます。
6世紀から7世紀前半まで、皇位の継承は兄弟相承(兄から弟に優先して譲)というルールで行われていました。ですが、天智2(663)年、白村江の戦いで敗れた天智天皇は、慌てて国の制度改革を行います。その中で、兄弟相承という日本の風習も、唐風の父子相承へ改めようとします。この結果、まだ対外脅威の渦中であった672年に、天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の息子・大友皇子の間で壬申の乱という国家を二分する大乱が起こってしまったのです。
国家の危急の際に、皇位継承争いが起こってしまったという失態は、苦い経験として朝廷に刻み付けられました。そのため、次期天皇にまだ政治力がない場合、暫定の天皇として前皇后を女帝として即位させるという措置がとられるようになります。和同開珎発行時の元明天皇は、まさにこうした措置で暫定的に据えられた女帝でした。彼女が大きな事業を行うためには、何かしらの瑞祥をでっち上げる必要があったというわけなのです。
瑞祥・改元の際の指揮を執り、和同開珎発行の実質的主導を行った藤原不比等はこの成功により正二位という位にまで昇進し、以後、元明天皇の右腕として後の藤原家の基礎を築いていくことになります。こうした結果からみても和銅の献上の記録は、あくまで政治的に必要なパフォーマンスであると見た方が自然でしょう。
3.発行順からデザインまで綿密に練られた計画
前述の通り和同開珎はまず銀銭が発行されました。これは、富本銭の失敗から学んだからとみられています。銅でつくった富本錢を発行してみたものの、すでに世の中に無文銀銭という銀塊が貨幣として出回っていたため流通しませんでした。そこでまず、民間が売買に用いていた無文銀銭などの銀塊と似た銀銭を発行し、政府の貨幣へと切り替えていこうとしたのでしょう。
また、デザインにも細心の注意をはらっています。富本銭は、漢字二字に星の図柄という日本独自のデザインを持っていました。が、これでは渡来人が持ち込み一部の貨幣を知る層が見慣れた貨幣とはあまりにかけ離れており、信用が得られないかもしれません。当時、東アジアで流通していた貨幣は、唐が発行した開元通宝という銅銭で、方孔の周囲に漢字4文字を配置したデザインでした。そこで朝廷は、直径から漢字の配置まで、この貨幣をそのまま真似して和同開珎をつくったのです。
↑開元通宝
↑和同開珎
4.政治家の欲により退場を余儀なくされた銀銭
朝廷は和同開珎銀銭発行後、和同開珎銀銭以外の銀の貨幣使用を禁止し、一年間は銀銭と銅銭を併用させました。この時代の銀の和同開珎と銅の和同開珎の比価は記録に残っておらず判明していませんが、銀を高額貨幣、銅を低額貨幣として使い分けていたようです。ところが和銅3(710)年、朝廷は突如和同開珎銀銭の鋳造を停止、更には銀銭自体の使用を禁止してしまいます。この時代人びとは、銀銭を使い慣れており銅銭より上位に見做していますので突然の銅銭のみへの移行は混乱を招きました。
これは、平城京造営事業費を賄うには産出量の少ない銀では心もとなくなり、全面的に銅に頼らざるをえなかったというのが多くの学者の意見です。和銅2年には、銀銭の贋造を禁止する法令が出ていることから、銀銭の和同開珎にはそもそも偽造が多く問題も多かったようです
こうして和同開珎は銅銭のみとなり、平城京を中心とした畿内一体で流通し始めました。
養老11(721)年には、藤原不比等の後継者となっていた右大臣の長屋王が、銀銭の再普及を図っています。世の中に残っていた和同開珎の銀銭と銅銭の比価を公定したのです。この法により
①和同開珎銀銭1枚は和同開珎銅銭25枚
②その他の銀の地金は、重量10匁で銅銭100枚
と規定されました。
この地金の交換比率には、経済学という学問が発展していない時代に頻繁に行われた、とあるからくりが隠されていました。実は、和同開珎銀銭は1匁の銀でつくることができます。つまり、②の銀地金10匁には本来和同開珎銅銭250枚になるはずなのです。もちろん計算ミスではありません。差額150枚を、シニョリッジとして朝廷の国庫に入れようという価格設定でした。その他の銀地金は朝廷が買い集めればさらなる和同開珎銀銭の素材となります。
ですが、銀地金は銀地金として市場が開かれている状況でこのような政策を取ることは自殺行為です。人びとは銀を表で売ることをやめ、闇市場で和同開珎250枚で売りさばくようになりました。結局、どれだけ待っても朝廷の元に銀地金は集まりませんでした。むしろ朝廷が保有する銀地金が不足する事態となりました。慌てた長屋王は翌年、銀地金10匁を銅銭200枚で買うと令を改訂したのですが、もはや事態を改善することはできませんでした。さらに言うならば、一度、銀地金が表市場から消えた事で、銀価格は上昇してしまいました。裏を返せば銅銭価格の下落が起きていたのです。結局、長屋王の死後、朝廷は銀銭の普及を諦めてしまいました。
5.和同開珎納税から学ぶ貨幣回収の意義
長屋王の死後、和同開珎銀銭の話題は史料に現れなくなります。銀銭は、通貨としての社会的機能を失っていったのでしょう。対して、銅銭のはその後半世紀に渡り社会に流通していることが分かっています。これは、朝廷が、納税を和同開珎で行うことを認めたからです。朝廷は官民への給料を和同開珎で支払い、納税でこれを回収しました。
少し話を戻します。この納税による貨幣の回収というのは、国家が貨幣を発行しようとする理由のふたつめです。その仕組みを現在の1万円札で考えてみようと思います。
1万円札の正式な印刷費は公表されていませんが、公表されている国立印刷局の経費や発行枚数などから逆算して1枚25円程度と考えられています。1枚発行ごとに9975円のシニョリッジが国庫に入る計算です。政府(現在の日本では独立した組織である日本銀行の収入ということになりますが)は、1万円を発行し流通させることで9975円の帳簿上の利益を得ます。この1万円札は様々な商品と交換されながら世の中を巡り、税金として政府へ帰ってきます。すると、回収した1万円札を使って、政府は1万円の支払いを行うことができるのです。つまり、流通させた段階で9975円の利益+税金として回収した段階で1万円の利益となり、25円で印刷した紙幣が帳簿上は1万9975円の利益を生むことになるのです。
当然、奈良時代の朝廷も和同開珎の回収には気をもんでいます。先ほどの納税のシステムもそうですが、ほかにも、街道に駅を設置し公務で地方と都を行きかう人に旅費として駅で和同開珎を与えました。畿内より広い範囲での貨幣を浸透させ、同時に駅に税を納める形で回収できるようにしようとしたのです。
ですがこの地方への浸透計画は、和銅4(711)年に出されていた、一定額の和同開珎を集めたものに官位を与えるという『蓄銭叙位令』により失敗しました。貨幣を流通させようとしているのに、貯金を推奨するこの法令は、一見朝廷の方針と矛盾しているようにみえます。が、朝廷としては、貨幣を見慣れていない地方民に価値を分かりやすく示せるうえ、駅を通じて地方へ流れた和同開珎を、叙位の際に持ってきてもらうことで回収できる一石二鳥のシステムでした。
ところが、奈良時代の地方民というのは豪族の奴隷のようなものであり、地方へ流れた貨幣は地方豪族がほぼ独占し貯蓄していたのです。豪族はよりよい身分を求めて貯蓄を続けたため、朝廷は税金を回収できなくなりました。結局、この蓄銭叙位令はひっそりとなかったことにされました。なぜひっそりとなかったことにされたのがわかるかといいますと、国史上、実際に叙位された記録は711年11月の1度しかないことと、この法令が思い出されたように廃止されたのが、延暦19(800)年と実に90年後だったからです。誰も位階をもらえないし、忘れられていた法律を、これやばくね?と慌てて廃止した平安貴族の姿が目に浮かびます。
実は、日本の貨幣にまつわる法律にはこうしたなあなあの例が多々ありまして。例えば、江戸時代の寛永通宝は、廃止するのを忘れていたため昭和28(1953)年まで、法的には使用することができました(笑)。
ともあれ、こうして政府の努力の結果、地方の一部の豪族と畿内圏に暮らす人々の間で和同開珎は貨幣として用いられるようになりました。銀銭の処理の失敗や、偽造が増加したことによりゆるやかに価値は下落していきましたが、朝廷の二度目の貨幣発行計画は一応の成功といっていいのではないでしょうか。