日本の公鋳貨幣40『慶長丁銀』
徳川家康による大黒常是のスカウト
徳川家康が構想した貨幣制度である三貨制度は、金貨、銀貨、銅貨の三種類の貨幣を、それぞれ変動相場制(幕府としては固定相場にしたかったようだが)で取引させるという試みです。
前回までは、その中核を担っていた金貨を紹介していきましたが、今回は、銀貨です。江戸幕府の銀貨は、銀座という役所で鋳造されていました。東京都銀座の地名の由来になった役所です。
すべての銀貨の製造を任されていた銀座役所の長は、大黒常是という名の男でした。大国常是と名乗る前は、湯浅作兵衛と名乗っています。彼は、泉州堺の銀吹屋として織豊時代に名をはせていました。
作兵衛は堺で南鐐座という銀屋を営んでいたようです。彼はそこで、桑原左兵衛、長尾小左衛門、村田久左衛門、郡司彦兵衛、長谷又兵衛ら5人の銀吹職人と申し合わせ、全国から灰吹銀を買い集めてこれに住友の銅を加えて銀貨を造っていたと伝わっています。
そんな作兵衛が家康に召出され、御銀吹役・御銀改役という大役を命ぜられると、江戸幕府の銀貨の鋳造を行うこととなりました。この際、家康から大黒常是の名と、宗近の刀。そして、後々まで銀貨で使用することとなる大黒座の印を拝領しています。
南鐐座が堺にあったことからも分かるように、銀貨は関西を中心に流通していた秤量貨幣です。
金や銀といった金属が、日本において貨幣化したのは戦国時代になってからです。日本の戦国時代の戦争というのは常時戦っているわけではなく、一番の目的は領地の安定経営です。そのために産業を発展させ、兵力を整え、自領内で産出しないものは、購入する必要がありました。当時、日本国内で最も物資が集まり購入できるところは関西でした。そして、関西では但馬や石見といった世界的に知られる大規模銀山が発見されていました。
発掘した銀の地金を、堺にいる湯浅作兵衛らのような銀吹き人へ持ち込めば、高品位の銀塊へ吹き分けてくれるということで、南鐐座などの有名銀座がつくった銀は、貨幣として信用を得て流通しはじめました。あまりにも安定した品位で皆が喜んで受け取るため、日本において使用する銀貨の基準になったとも言われています。
その信用の前には、天下人であった豊臣秀吉も逆らうことができず、公の事業の支払いのために用いる銀「諸御公用銀」は南鐐座に吹かせるようになりましたし、銀吹き人には特権を与えるようになりました。ますます、関西圏での銀貨の信用が高まりました。
関西で銀遣いが一般化してしったため、家康が金貨を中心とした全国統一の貨幣制度を作ろうと試みても、関西での展開は難しいということになってしまいました。まだ、江戸は開発途上であり、関西から大量に物資を購入する必要もありました。家康は、新たな貨幣制度を定着させるより、すでに完成していた銀遣いの文化にただ乗りした方が早かいと判断しました。
そこで、家康がとった手段が南鐐座の座主であった湯浅作兵衛の、江戸幕府へのスカウトでした。これは、家康の全国貨幣統一という野望において非常に大きな一手となりました。
当時の関西には南鐐座以にふたつ、人気のある銀屋がつくった丁銀存在していたことが記録に残っています。ひとつは、菊一文字の極印が打たれた丁銀。もうひとつは夷一文字極印が打たれた丁銀です。
慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いに勝利した翌年、家康は銀貨統一のために大黒の極印が押されたもの以外の流通を禁じました。そして、京都の伏見に、伏見銀座という大黒常是専門の銀吹役所を建造し、そこで全国共通規格の銀貨を鋳造させたのです。
こうして大黒常是が家康のために作った銀貨のうちのひとつが、「慶長丁銀」です。
大黒常是の裏に金座の陰
銀座は、金座と並ぶ公の貨幣鋳造機関として、江戸時代を通じて運用されました。幕府にとってもとても大事な役所となったのですが、家康は、どこで大黒常是(湯浅作兵衛)とつながりを持ったのでしょうか?
大黒常是家の由来とされる由緒書き『常是銀座由緒書』によると、泉州堺の町人であった湯浅作兵衛は、南鐐座を開くよりも前、家康の伊賀越え(本能寺の変に際し、京近辺へ滞在中も非武装だった家康が、明智光秀に捕まらないよう伊賀の山を越えて逃げ帰った事件)の際に、同行した、ということが記されています。
伊賀越えが起きたのは天正10(1582)年6月2日のことです。
この事件から17年後の慶長3(1598)年、南鐐座の頭目として、堺でぶいぶい言わせていた湯浅作兵衛は、突如家康に呼び出され、17年前の事件の褒美として大黒の苗字を拝命し、家康に仕えることになったと書かれています。
……果たして、そんな変な話、あるでしょうか?
まず、天正10年時点では、自身らの記録で書いているように湯浅作兵衛は一介の町人に過ぎず、南鐐座を営んでおりません。
さらに、家康が湯浅を呼び出し大黒常是に任命したという慶長3(1598)年という年は、秀吉が死んだ直後です。作兵衛ら南鐐座は、豊臣政権下の中で銀座人として特権を与えられていた真っただ中であり、その状態で、これからどうなるか分からない家康の元にはせ参じるとは思えません。
現に、関西随一の金屋であった後藤家は、同じように家康に召喚された際に、党首や後継ぎではなく弟子の橋本庄三郎を名代・後藤庄三郎として派遣することでお茶を濁しています(笑)
おそらく、これは江戸時代に流行った家の由緒書きの捏造で、実態は伊賀越えに湯浅作兵衛らは同行していなかったでしょう。
私がそう感じるのは、大黒常是が召し抱えられたという年を、実質徳川家が天下人となった慶長5年(1600)年や、家康が征夷大将軍となった慶長8(1603)年ではなく、わざわざ慶長3(1598)年としているからです。
notteでもそのうち書くことになるとは思いますが、実は銀座は江戸時代の後期に向かうにつれて金座をライバル視するようになっています。
ざっくり説明しますと、江戸時代後期になり日本全国の経済状況が悪します。当然、金座や銀座の収益も悪化していきました。幕府は、貨幣鋳造機関の救済に乗り出しますが、何故か、金座を優遇して支援をし行っています。銀座もなんとかして支援を得るために、こうした由緒の創作にこだわったと考えられます。
江戸時代においては何かにつけ、家格というのが大事です。初代・大黒常是が、金座の初代後藤庄三郎光次よりも家康に仕えた時期が遅いとなると、それだけで金座より銀座の格が下とみなされかねません。
また、1598年にようやく鋳造が始まったとみられる武蔵墨書小判の現存数の少なさから見ても、関東一円の貨幣制度づくりが未完成の時代に、西日本でしか流通していない銀貨を作ることに力を入れる余裕は、家康にはなかったと思われます。
なので、一般的に大黒常是が家康に仕え始めたのは、実際に新たな貨幣態勢を発表した慶長5(1600)年~慶長6(1601)年の間であったと考えられています。
ちなみに慶長銀の発行にあたり、湯浅作兵衛ら南鐐座を紹介したのは、関西出身の後藤庄三郎光次と、滋賀県大津の豪商・末吉勘兵衛の建議からであったと言われています。末吉勘兵衛は、信長、秀吉と仕え、摂津の代官にも任命された人物ですが、本業は廻船問屋です。
家康が三河城主であった時代から、関西の品々を三河にまで運んでおあり、三河領内出入り自由という特権を与えられていました。当然、家康とは古くから面識があります。
そんな彼は、秀吉の手により代官に召し抱えられたにも拘わらず、秀吉の死の翌年、慶長4(1599)年には、さっさと時流を見越し徳川家康の家臣に鞍替えをしています。
関西の銀遣いを熟知した近江・摂津商人と、関西で信用を得た金貨幣の細工士が家康に仕えたことによって、湯浅作兵衛という優秀な銀屋の存在を家康は知ることができたのです。
作られた時期により形状が異なる?
慶長丁銀は、表面に「大黒像」と「常是」。または「常是」と「寳」の極印が数箇所から十数箇所打たれています。これは、初期の慶長丁銀が切遣い(切断したのち、銀の重さで金額を決めること)を想定していたからです。どこで切断しても、銀座が検品したということを証明するために、数多くの極印が無作為に打たれたものと考えられています。
慶長丁銀が切遣いを想定していたことは、初期の慶長丁銀の分厚さからも分かります。実は、元禄期以降に作られるている丁銀よりも、かなり薄手の作りとなっています。鏨による切断を簡単に行えるようにとの工夫です。
逆に後期の作と伝わるものは、上下に大黒印2箇所と両脇に6箇所、計8箇所の極印と規格化されています。これは、慶長丁銀のあとに製造された元禄丁銀の形式に近いですが、過渡期に作られたようなものも存在しており、史料も見つかっていないためこの区別によって厳密に前期後期と時代を区切ることは危険でしょう。
とはいえ、形式が定まったあとの慶長銀が後期のものであろうと推測される根拠のようなものはあります。慶長期は、戦国時代からの続きということもあり、全国各地で銀山の開発が続いていました。そのため、国内の銀の流通量は右肩上がりに上昇しています。ですが、1630年代の寛永年間にさしかかると、多くの銀山で銀を掘りつくしてしまいました。この産銀量の減少は、幕府の記録からも明らかです。元禄7年(1694年)には銀座に納入された銀の量は、慶長期の10分の1まで減少しています。
後期に製作された新しいはずの慶長丁銀の現存数が、初期型とされるものよりもさらに少ないのはこれが理由だろうというのです。
もっとも、初期型の慶長銀は豪商などの家で貯めこまれ、後期型のものばかりが回収され吹きなおされた可能性もあるため、やはり断定は危険でしょう。