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日本の公鋳貨幣16『宋銭使用禁止令』

前回はこちら

日本社会に銭を定着させた平家の滅亡

平家政権が盤石の態勢を整えた治承3(1179)年、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉。関白・松殿基房を追放し完全に政治の実権を握ることに成功します。武家の時代の始まりです。

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↑清盛に幽閉された後白河法王。ヘッダーの三十三間堂を作った人です。

同年日本全土ではしかが大流行していますが、全身に丸く赤い発疹ができるこの病は「銭病」と命名されました。清盛の政策により、完全に日本の一般庶民にまで「銭」の使用が定着した証でした。

この年、後白河法王の息子である高倉天皇は布や米などの従来の貨幣価値を、銭単位で表すことを命じています。高倉天皇は清盛の娘を皇后に迎えており、間違いなくこの詔は清盛の意向を受けたものでしょう。

いくら嫁の父の意向とはいえ高倉天皇も天皇です。この銭単位の普及を命じる前に、明法博士の中原基広に一応相談し

「輸入銭は偽造銭に等しいものなので通用を禁ずべき」

という回答を得ています。

前回少し触れましたが、銭が普及することによって困ったのが、朝廷と公家でした。銭が普及したことにより、今まで貯め込んでいた布や米の価値がどんどん下落していたからです。朝廷のことを考えるなら、高倉天皇も中国から渡ってきた銭などという怪しげなものは無くなって欲しいと考えていたのです

とはいえ、平清盛がクーデターを起こしたことによって父・後白河法王の院政から解放され、天皇親政を許された高倉天皇が、面とむかって平家一門を批難することなどできようはずがありませんでした。一応このような意見も出たと清盛に示すのがやっとだったのでしょう。

我が世の春を謳歌していた平清盛でしたが、彼がまずかったのは、父よりも少し、政敵を作りすぎたことでした。成り上がりである清盛を排除しようとする勢力は急速に拡大していきました。

反清盛連合の筆頭となったのは、もちろん清盛に政権を奪われた後白河法王です。実は後白河法王は、清盛と一緒になって日宋貿易を主導していた一人でした。ただ違ったのは、後白河法王は中国の文物を欲しがっていたのに対し、清盛は銭そのものを欲していたということでしょうか。

表向きは後白河法王へ従って来た清盛でしたが、高倉天皇に子どもが生まれ、次期天皇の祖父となる芽がでた時点で、院という制度そのものが邪魔になっていき後白河法王を幽閉してしまいました。そのため、反清盛連合の筆頭でありながら、後白河法王には何の政治的実権もこの段階ではありません。彼はただじっと、時がくるのを待っていました。

幽閉から二年後の治承4(1180)年には、高倉天皇は、息子(清盛にとっては孫)に譲位を実行。第81代天皇・安徳天皇が誕生し、清盛は名実共に日本の最高権力者となりました。

院も朝廷も面白くありません。が、彼らの旗印となってくれそうな後白河は、未だ清盛に幽閉されています。しかしここで、後白河の息子でありながら皇位継承権と荘園を清盛に剥奪されていた以仁王が平家への反乱軍をおこします。この反乱軍に同調したのが、源頼朝などで知られる「源氏」という武士団でした。

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↑源頼朝象

源氏はそもそも摂津(現在の大阪府)あたりで勢力を拡大した武士団です。本拠地が京に近いことから一流の武士団として、皇族から摂関家まで様々な貴族に仕ました。特に、摂関政治全盛期の藤原道長の私設武士団として仕えていたことが知られています。

が、あまりにも勢力を拡大しすぎたため、源氏一族内での内紛が恒常化。徐々に朝廷からの信頼を失っていきました。おまけに、この時期に朝廷は摂関政治から院政への転換期をむかえ、主である藤原家に権力がなくなっていきます。結局源氏は、関西から内紛で追放されたり、あるいは関西で勢力を広げられなくなり辺境である関東へ進出するしかなくなります。逆に院に接近した平氏は、関西での勢力圏を広げていくことになるのです。

以仁王の反乱は、源氏勢力が京の舞台に返り咲く絶好のチャンスでした。全国各地へ散らばっていた源氏の一党は、以仁王の挙兵の呼びかけに応える形で一斉に蜂起。以仁王が捕えられ処刑された後も、幽閉中の後白河法王を助けるという名目で、平家と戦い続けるのです。(この源平合戦のなかで木曾義仲と源頼朝でまた内紛を起こすところがまた、非常に源氏らしいのですが)

なので、源平合戦における源氏の当初の目的は中央政界へ返り咲くことであり、後白河法王に気に入られることだったと考えられます。当然ですが「宋銭」なんていう平家が無理矢理流通させたようなまがい物の貨幣を認めることもありませんでした。源氏が宋銭を認めなかったのには、イデオロギーもありますが、平家と宋銭を用いた経済戦争になると勝ち目が無くなってしまうこともあります。

さらに、後白河法王に何度も圧力をかけられており犬猿の仲であった寺社勢力が、反平氏の呼びかけに呼応します。寺社勢力も律令時代から続く米・布経済の担い手です。当然、宋銭の流通には苦々しいものを感じておりました。当初こそ平家優勢で戦は進んでおりましたが、比叡山や南都の寺院が琵琶湖ルートでの京の物流を遮断したことで、一点窮地に陥ったのです。

清盛は、京を捨て日宋貿易の一大拠点であった大輪田泊(現在の神戸)に遷都しようと計画をたてますが、このことがさらに寺社勢力や小規模武士団の反感を買い敵を増やしました。文治元(1185)年、壇ノ浦の戦いに破れ安徳天皇も入水。平家はここに滅亡することとなりました。

普及した宋銭を嫌った朝廷と源氏

建久元年(1190年)11月7日、源頼朝が1000騎余りの軍を連れ上洛し、後白河法王と対談します。40日間で直接対談は8回も行われており、ここで鎌倉と朝廷との間の役割分担が話し合われました。(このとき頼朝は右近衛大将という軍事職に就任していますが、この役職には政治制約が多かったため辞任し、2年後に征夷大将軍を改めて拝命することになります)

鎌倉幕府が日本全国を実質的に支配するのは、承久3(1221)年の承久の乱以降ですので、この段階で頼朝が手に入れたのは、軍事・警察・東国の土地支配権です。それ以外の実権は朝廷が持っておりました。このことからわかるのは、源頼朝はあくまで朝廷と院を守護する武力として、自身の権威を確保しようと立ち回っていたことです。なのでもちろん、本稿の主題でもある通貨政策も朝廷に従っていました。

後白河法王と高倉・安徳天皇は対立していましたので、復権した後白河院が採用した通貨政策とは、再びの銭使用禁止です。これには、源平合戦が終結したことも関係しています。戦争中は、衣食住にまつわる全てが不足するので、米や布といった朝廷が集めていた資産の価値が上昇します。ですが、戦争が終わってしまうとこれらの値段はすぐに下落し、銭の価格が上昇し始めてしまいました。

荘園を持っている貴族や武家からは、宋銭の流通が物価体系を破壊したように見えていたことでしょう。そのため朝廷はこのあと頻繁に、宋銭を使った取引や朝廷が定めた価格以外の基準で取引を行った人びとの取り締まりを行っています。

ちなみに、このとき朝廷が定めていた米と銭の比価は

米1石=銭1貫文

です。

が、取り締まりを行っていたということは、これが守られていなかったということでもあります。人びとはやはりみんなが使い始めており、持ち運びも便利な宋銭を欲していました。朝廷の資産価値は相対的にどんどん目減りしていました。1180年代に朝廷は、2度宋銭の使用を禁じる令を出していますが、この令は平家一門の権力によるものか、高倉天皇による貴族へのデモンストレーションだったのかほぼほぼ実行されなかったようです。

そこで後白河法王は、建久4(1193)年7月、自分の名義で宋銭通用禁止令を出します。この令は、それまでの実態を伴わなかった令と異なり、「平家滅亡後」かつ、新たな「武家筆頭の源氏が後白河法王に従っている」という状況もあり効果を発揮しています。

特に、この時代ごろから盛んになった銭出挙(銭での高利貸し)を営む債権者と、債務者の間で大きな争いを生みました。

11世紀中ごろに書かれた法令集『類聚三代格』により、それまでの日本で銭出挙の利子には、年50%までという制限が設けられていました。

ところが建久4年に厳しい銭使用禁止令が出されたことで、銭で借りた借金を米で返さなければならなり、この法令の遵守が難しくなってしまったのです。

銭使用の禁止により、建久4年以前に銭で1000文かりた人間は1年後の借金返却を

米1石+利子0.5石=1.5石

で返せばよいことになりました。が、既に説明した通りこの時代の実態相場は銭高、それもかなりの速度で銭高が進行しています。もし仮に米1石=銭500文といった相場であったなら、

本来、米2石+利子1石=3石を支払って貰わなければ、債権者としては損になってしまうはずでした。しかし、後白河の銭使用禁止令のおかげで米1石+利子0.5石=1.5石を支払うだけですむわけです。

これでは債権者側が非常に不利となってしまうため、当然、銭出挙業者から怨嗟の声が巷にあふれました。そこで朝廷は、480日経過で100%まで利子をかけて良いという追加措置を施しました。365日で50%だった利子が480日で100%になると、今度は債権者側に大幅に有利となってしまいます。この措置には債務者側が非常に苦しみ、今度は債務者から朝廷への突き上げが起こりました。

米と銭の交換比率が、今の外為などとは比べ物にならない速度で変動していたであろう鎌倉時代初期には、こうした返済時のギャップを解消するべく、従前債権者側と債務者側で頻繁に話し合いが行われていたと考えられています。しかし、強力な権力を持った勢力が銭の使用を厳しく禁じたことで、この話し合いを行う余地がなくなり、結果、令を定めた朝廷へ不満がすべて向かっていくことになりました。

借金をする人たちは、自分たちの生活がかかっています。初期こそ朝廷が実際に取り締まりを行ったことで銭の使用禁止並びに、米1石=銭1000文の比率は守られていましたが、やがて人びとはこの公定を無視するようになっていきました。

「何故、自分たちに庶民の不満が向くのか。全ては宋銭が浸透してしまったからだ」

そう考えたかどうかは知りませんが、こうした出挙業者の訴えを受け対策を検討するため、朝廷では再度銭使用禁止の是非を巡る公卿会議を開催しました。記録によると参加した公卿の多くは、銭は使用禁止するべきと述べましたが、内大臣であった中山忠親がただひとり反対しています。しかし、その理由は、まるで頓珍漢なものです。彼は「法定価格が守られないのは治安部局が取り締まりを厳重にしないからである」と考えていました。つまり、公定価格が守られさえすればやがて銭の使用は自然となくなる。公定価格の厳守をまず実行しない限り銭を禁じても意味がないと述べたのです。

この発言からも、当時の貴族のあいだででは、あくまで朝廷の物価・財政問題の解決が念頭にあり、庶民が銭を使い始めたのは、米や布より便利で使いやすかったからだという視点が抜けていたことがわかります。

朝廷の守護者でしかない鎌倉幕府ももちろんこうした朝廷の公卿会議に従っております。いや、むしろ積極的に朝廷に銭使用を働きかけていたきらいすら見受けられます。

源平合戦が終わってもまだ混乱の最中であった文治3(1187)年、頼朝の弟である源範頼が納めていた三河の政庁から朝廷に、輸入銭の使用を全面的に禁じて欲しいとの要望が提出されています。

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↑源範頼象

源氏の支持者は、平家政権で割を食った職業の人びとです。具体的にいうなら、物を左右に動かして利益を得る商売人やサービス業などの第三次産業従事者ではなく、農業や漁業の第一次産業従事者や、職人・工業などの第二次産業従事者でした。

このような人たちは、平家がもたらした銭高によって自分たちの生産した物の価値がどんどん下落してしまい生活が苦しくなっていました。さらに偶然ですが、源平合戦が終わった年から数年間、日本は大豊作期が続いていました。生産量が上がれば物の価値は下がってしまいます。

源氏の関係者は、自らの支持者達が今後自分たちからはなれていかないよう、なんとしても銭の使用を禁止しようとしていたのです。


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