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日本の公鋳貨幣42『慶長通宝』

終戦記念日も近いということで、クライアントより依頼を受けてまた歴史系の動画をしこしこと作っておりました。

皇居のすぐ東に、模擬原爆が落とされていたという事件についての動画です。動画ではクライアントさんと直接関係がないのでカットしてしまったのですが、この模擬原爆は元々皇居を狙って落としたが狙いが外れたことや、落としたB-29のパイロットのその後など調べれば調べるほど衝撃的な事件でした。

最近は所属する会社のHPも勝手に改造して、歴史ものの記事を上げまくるという暴挙に出ており、なんとかして老後は歴史ものの編集だけで生きていきたいなと思っている所存です。

あ、でも編集協力を行っているこちらのサイトが始めてから2年経ち、安定したView数を出すようになってきたので、こちらもしっかり継続いしていきたい所存。

では、古銭の話へ戻ります。


渡来銭時代の終わり

徳川幕府が成立したことによって、日本国内で鎌倉時代から続いていた銭貨を主体とする貨幣制度から、金銀化を主体とする貨幣制度に移行しました。とはいえ一般の人々の生活において徳川幕府が制定した金銀貨は高額過ぎるため手にする機会はほとんどなく、江戸時代初頭は金銀貨と並行して従来の渡来銭や私鋳銭が流通していました。

全国統一を果たした徳川家康は銭貨の統一を行おうと考えていましたが、金銀貨ほど熱心ではなかったようです。

金銀貨の制定の3年後にあたる慶長9(1604)年、ようやく徳川家康は銭貨の統一へ動き始めます。まず最初に行われたのが、東日本で流通していた「永楽通宝」を基準として、鐚銭との交換比率を定めました。


永楽通宝

「永楽銭一を以て鐚銭四にあてる」と、という永楽銭通用令です。ちなみにこの法令でいう鐚銭とは、私鋳銭のことを指していたと考えられています。鐚銭はまたの名を「京銭」とも記録されています。関西地方で、宋や明時代の銭の私鋳銭が大量に出回っていたからです。『京で使用されている銭は、すべからく贋金と考えるべき』という考えから転じて、鐚銭全体のことを「京銭」と呼ぶようになったようです。

家康が当初考えていた銭貨の統一制度は、東国で大量に流通しており幕府も大量に保有している永楽通宝を基準とすることで、東国有利になるレートでの交換を行えるようにすることだったようです。とはいえ、永楽銭もすでに製造が終わって100年近く経っていました。そこで幕府は、独自の小額貨幣を発行しようと画策します。

このとき計画され、慶長11(1606)年ごろに鋳造されたとみられるのが、「慶長通宝」です。

慶長通宝

600年以上ぶりに発行された日本の銅銭

958年の「乾元大宝」発行を最後に、日本国内で銅銭の発行は止まってしまっていました。つまり慶長通宝は実に650年ぶりに日本の中央政府が発行した銅銭ということになります。そして、見事に普及に失敗した銅銭でもありました。

かなりの量が鋳造されていたようではあるのですが、幕府に慶長通宝の鋳造記録はほとんど残っていません。江戸時代の貨幣史の難しい所に、明暦の大火によって初期江戸幕府の記録のかなりの量が焼失してしまっていることがあります……。


明暦の大火(『江戸火事図巻』/田代幸春画)

なので、先述の慶長11(1606)年初鋳という情報も、このあと紹介していく慶長通宝に関する説も、確定ではないことだけはご了承ください。

さて、慶長通宝には大字小字という直径の異なる2種類の貨幣が存在します。大字は重量およそ1匁(3.75g)と統一されている一方、小字は0.6匁(2.25g)と1.5gも小さくなっており、計量ミスなどではない何かしらの作為が感じられます。

小字の方は、その書体の形状から製造方法がおよそ推測されています。いわゆる「鐚銭式」と言われる方法で、「永楽通宝」から「永楽」の二字を削って、そこに「慶長」の2字を嵌入たものです。「鐚銭式」という名称の通り、東アジアの銅銭の多くが「通宝(寶)」の字を採用していることを利用した偽造法です。

この方法で作ると、まず型取りの度に直径が小さくなっていってしまいますし、元々の「通宝(寶)」の文字のサイズと後入れの「慶長」の文字のバランスが狂っていってしまいます。

対する大字の慶長通宝はというと、こちらの「通宝(寶)」の文字は完全なオリジナルの書体です。新規で母銭を作り鋳造したようで、銅の質も良好なものとなっています。

まだ豊臣家が大坂に存在しており、江戸幕府として人心の把握に腐心していた時期に発行した銭貨が、私鋳銭と同じ方式で幕府が発行したとは考えられません。なので、「大字は幕府が鋳造したもの」「小字がそれをもとに民間で私鋳されたもの」とされています。

この証拠といいますか、小字の慶長通宝では「寶」の字の中に含まれる「王」の二画目部分が必ず欠損しております。幕府が公式で作る銭貨が文字欠けをそのまま放置し続けるとは考えにくく、最初に偽造を行った業者の型がそのまま流用され続けたのでしょう。当時銭を使用するような所得の低い庶民は、文字など読めませんでしたし、そもそも私鋳銭を作ることも使うことも犯罪ではありませんでした(笑)。

そして、皮肉なことですが、現存する慶長通宝はそのほとんどが、小字のもの、すなわち偽造されたもののほうです。つまり、幕府が必死で作った慶長通宝はあまり普及せず、偽造されたもののほうはそこそこ流通したということでしょう。

鋳地についてはよくわかっておりませんがもしこの幕府鋳造と民間偽造説が本当なら、大字の鋳地は、貨幣鋳造が始まったことで銀座・金座が設置された江戸や京。一方小字は「鐚銭式」の巧みさからみて、当時鐚銭の一大生産地であった九州地方でないかとされています。

発行した幕府からも鐚銭扱い

本貨が公鋳貨幣として流通していたのか、その扱いが難しいのは、鋳造されたと考えられている慶長11(1606)年よりあとに発布された幕府による諸々の撰銭令に、その名称が登場してこなくなるからです。

まず、慶長13年(1608)年に出された徳川幕府の撰銭令です。

(1)永楽一貫文に鐚銭四貫文ずつの積もりたるべきこと
(2)今後永楽銭はいっさい取り扱うべからざること
(3)金子一両に鐚銭四貫文の割合で取引すべきこと
(4)なまり銭・大われ銭・かたなし・新銭・へいら銭のほかはみだりに撰銭してはならぬこと

『日本貨幣法制史』武藤和夫著P20より書き下し意訳

意訳しても少しわかりずらいので、順に解説していきます。

まず(1)です。単純に読むと、永楽通宝1000文=鐚銭4,000文の公定価格と読めますが、厳密にいうとここの『永楽一貫文』は、永楽勘定のことを指します。永楽勘定とは、秀吉より前の貫高制における年貢の納入方法のことで、米ではなく貨幣で税を納める場合の基準です。そのため、必ずしも永楽通宝である必要はありません。あくまで、「状態のよい銭(鐚銭ではない)なら、鐚銭の4倍の価値で年貢納入時には扱いますよ」ということを言っています。

次の(2)は、そのまま読むならば「永楽通宝の使用を一切禁止する」と読め、(1)と矛盾しているように見えますが、日本銀行金融研究所などは、この一文を、「永楽通宝の民間のおける優位性(納税時以外の4倍での取り扱い)を停止したと解釈するべき」としています。

そして(3)において(2)で等価とした銅銭すべてと、金貨との価格を公定。(4)において、(2)(3)で設定した「鐚銭の価格」を徹底し、撰銭を行わないようにと規定したのです。

この法令で面白いのが、発行したはずの慶長通宝のことが全く触れられていないことです。この年の段階でせっかく作った慶長通宝は、すでに世の中に出回っているその他多数の銅銭の中に埋もれてしまっており、鐚銭扱いだったということを表しています。

この法令を出した翌年にあたる慶長14(1609)年、幕府は再度同様の法令を発布しています。追加されたのは、

(5)金子一両に銀五十目

『日本貨幣法制史』武藤和夫著P20より書き下し意訳

という、銀貨と金貨の公定価格の箇所と、「鐚銭」という文言をすべて「京銭」に書き換えているくらいです。

この二つの表記から、この法令が関西を意識して発令されたものであることが推察できます。慶長14(1609)年というと、まさに豊臣家と徳川家の権力構造が切り替わり始めた年(方広寺鐘名事件のきっかけとなった、方広寺の再建を豊臣秀頼が開始)であり、伏見城で預かっていた西国大名の人質たちを、江戸城に映すなど、関西における幕府の影響力を強めようと家康が行動を開始し始めた年でもありました。

こうして、幕府は慶長通宝のことをなかったこととしてすべての銭貨を鐚銭に統一することで撰銭をなくそうとしました。

しかし、実際のところ撰銭の風習はなくなることはありませんでした。特に(1)で、永楽通宝の納税時の優位を認めてしまったことが問題でした。状態のよい永楽通宝は納税用にどんどん退蔵されるようになりました。銭貨は次々と市中から消えていきました。幕府は定期的に撰銭禁止令を出し、ついには、違反摘発者に褒美を出すといった、撰銭懸賞金制度のようなことまで行いました。

このような状態になってもなお、幕府はまだ小額貨幣である銭貨の統一発行には消極的なままだったのです。



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