日本の公鋳貨幣41『慶長豆板銀』
端数調整に用いられた銀貨
関西地方を中心に、貨幣として流通した銀貨は、秤量貨幣(銀の重さによって価値が定められる貨幣)でした。そのため、取引の度に重さを図ったり、銀貨を切断して重量を調整していました。
ですが、常に商人が正確な重さに切断できるとは限りませんし、140gの銀塊と200gの銀塊しか持っていないときに、143gの支払いのためわざわざ3gだけ追加で削り出すのも大変です。
このような端数が生じた時の調整のために生み出された銀貨が、『慶長豆板銀』です。
形状は不定です。あくまで丁銀での支払いの補助として製造されたため、どうしても丁銀よりも小型となります。端数支払いのための銀ですので、重さもまちまちです。丸い小石のような形状が多いため、「小玉銀」とも呼ばれています。基本的には、「大黒像」の図柄か、「常是」あるいは「寶」の極印を1~2個打つことがルールとなっています。
でまた丁銀も含め、慶長期の銀貨に打たれている大黒像の図案は少し右向きで、頭巾の向かって右に垂れがあるのも特徴です。
「包銀」という文化の定着により誕生
さて、ここで一枚の画像を見ていただきます。
これは、支払いのために切断された薄手の慶長丁銀です。このように初期の慶長丁銀は明らかに切断をして使用していたのですが、元和年間(1615~1624年)銀の切遣い慣習はなくなっていたとされています。
その決定機となった出来事が、銀貨を鋳造する銀座が行っていた『包銀』でした。本来、銀貨は「匁」という単位で流通していました。1匁=3.75gです。なので、布一反は銀10匁のような形で商店に並んでいました。
ですが、都度都度これを秤にかけて計測していたのでは、お客さんが多いときなど店はさばききれませんし、税や献上金として大量の銀貨が幕府に納入された時は、並の秤では計測しきれなくなってしまいます。
そこで、新たに生み出されたのが「銀〇枚(白銀〇枚)」という単位でした。
この場合「銀1枚」とは、銀貨43匁(135.45g)のことです。「銀1枚」単位を用いるのは、献上時や被下時などに限られていました。特別な場面で使用しますので、慶長丁銀や慶長豆板銀を43匁集めればよいというわけではありません。
「銀1枚」を揃える際には必ず、大黒常是役所、すなわち銀座の手で計量と検品を行い、包封を行っていました。
封をほどいてしまうと中身を入れ替えらたという疑義を生じさせてしまいますので、必ず受け渡しは封を解かずに行われます。
この際、目方が超過した慶長丁銀に関しては、切断をする以外で包銀に用いることができませんが、目方が少ない慶長丁銀に関しては、同じ品位の銀の切れ端を少し足して包んでしまえば、同じこととなります。
豆板銀は、この包銀の重さを調整するために作られたと考えられています。
銀を包んでいるのは紙ですので、普通に破れることは多々ありました。また、献上された「銀1枚」が民間へ流出すると、ちょっとした支払いのため包みを解かれることも出てきます。
こうして豆板銀が、それ単体で小額決済にもちいることができる貨幣として流通していったようです。
ちなみに、銀を一定の重さに包んで使用するという慣習は毎回の計測を行わないで済むということで、民間の両替商や大店も真似をし始めました。
大黒常是の名前で包むことはできませんが、ある程度の規模の両替商や商人でしたら銀座と同等以上に信用がありましたので、民業では十分通用力が得られました。
銀座は包銀を行う際に別途若干の手数料をとっていましたが、この手数料の慣習も民間へ引き継がれています。
銀貨の海外への流出
慶長銀の鋳造高に関しては、丁銀、豆板銀あわせて120万貫目(約4,500t)と言われています。この数値は勝海舟が、明治後に、幕府が所蔵していた古い記録をまとめた書物『吹塵録』に所収されている「銀位并銀吹方手続書」の値や、同じく『吹塵録』所収の「後藤方二而取調候古通用銀吹立」から産出した値と思われます。
ですが、これらの記録は、18世紀末の1790年ごろのものであり、実際の鋳造量はもう少し多くなるというのが大方の見方です。
大航海時代に東アジアにやってきたポルトガル・イスパニアでしたが、本国の国内事情や、豊臣秀吉の貿易の統制、キリスト教の弾圧により東アジアから撤退していきました。代わりに進出してきたのが、イギリスとオランダです。
イギリスは1600年に、オランダは1602年に東アジア会社を設立し、完全に東アジアの権益を、ポルトガル・イスパニアから奪い去ることに成功しました。
この両国がそれまでの国々と違っていたのが、カトリックではなくプロテスタント国家であったということです。16世紀のカトリック国の航海は、表向きは「布教」を第一目的に行われていました。ルターの宗教改革により、信者の多くがプロテスタントへと改宗してしまったため、新たな信者獲得の必要が生じたからです。
一方のプロテスタント国家は、布教にお金をかけて行わなくても、勝手に信者が増えている時代です。なので、彼らの航海の目的は「商売」でした。なんといったって、イギリスもオランダも当時は重商主義の真っ最中。当然、徳川家康も彼らの狙いを見越したうえで、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを通じて貿易交渉を行わせました。
台湾や朝鮮との朱印船貿易も隆盛を極めたため、寛永8(1631)年に「いわゆる鎖国体制」が完成するまで、日本では無制限貿易が行われていたのです。
平和が訪れた江戸時代初期の日本において国内需要は増大しておりました。その際に国内で求められたのは、西洋の武器や、珍しい南蛮の品ではなく、生糸や絹織物、染料、香料、砂糖、薬種といった、中国の嗜好品でした。
直前に行われた秀吉の朝鮮出兵により中国の明・李氏朝鮮と日本との関係はよくありませんでしたが、中継として、台湾や、イギリス・オランダの商人らが活躍しました。彼らは、仕入れた中国の品を日本へ持ち込み銀貨と交換。手にした銀貨を用いて、中国から香辛料を購入しました。
日本は常に輸入超過の状態となったうえ、せっかく作った貨幣のうち、銀貨ばかりが流出する事態となったのです。
江戸時代初期の銀貨の流出については、さまざまな人が推定を出し続けています。最も古いものは、新井白石が記した『本朝宝貨通用事略』及び、『折たく柴の記』でしょう。成立は1710年代と考えられています。慶長銀が作られてから100年後には、銀流出の反省が始まっていたんですね。
ちなみに、白石の計算によると、慶長6(1601)年~正保4(1647)年までの46年間で748,478貫目余(約2806t)。正保5(1649)年~宝永5(1708)年までの61年間で372,209貫目余(約1395.7t)となっており、いかに多くの慶長銀河が、鎖国が行われるまでに海外流出したかが分かります。
白石の試算では、製造した慶長銀の実に3分の1が国外に流出したことになってしまうため実際の鋳造量はもっと多かったのは間違いでしょう。ですが、西日本を中心に地方のみで流通していた独自の銀貨がまだ存在していたことと、海外流出が激しく銀貨が市中にまでなかなかまわってこないという実態があったため、慶長銀の全国的な普及は、金貨よりも遅れました。
銀流出に追い打ちをかける事態も起きています。実は江戸時代初期、同じ重量で比較した際の日本の金銀比価は、日本が金1:銀10であったのに対し、中国では金1:銀7でした。日本で安く手に入れた銀を中国で高く使えるということも、慶長銀の国外流出に拍車をかける要因となったようです。
実は、いわゆる鎖国の完成の裏には、国内銀の流出という問題も絡んでいたのでした。