日本の公鋳貨幣39『慶長一分金』
日本銀行が公開している資料や論文ですと、江戸時代初期の慶長小判1枚(1両)は、現在の貨幣価値でおよそ10万円であったとしています。これは、当時の米価を基準とした計算だと思われ、金1両を米1石(約180kg)として取引していたという、日本の商慣習をベースに導き出した値でしょう。現在の米1kgは、ブランド米で700円程、そんなに知られていない米で400円ほどですので、12万6,000円~7万2000円の間となり、大体このくらいの値段に落ち着きます。
余談ですが、近年は金需要の高まりにより金1gあたり9,600円前後で取引されています。慶長小判1枚は17.85gですので、町の金属買取店に小判を持ち込むと、店の儲けを差し引いた17万円前後の値段で買い取ってくれるでしょう。
「そんなに!」と思われるかもしれませんが、絶対に売るのはやめてください。
金属買取店は買った金属を溶解して売ることが商売ですので仕方がないのですが、古銭類は金属としての価値以上に歴史の積み重ねにより生じた「美術品」としての評価が上乗せされてしかるべきものです。
なのでご家族の遺品として預かったまったく興味のない古銭で、売っても構わないという場合でも、必ず古銭商へ持ち込むようにしてください。状態にもよりますが、慶長小判なら100万円以上の値段がつくことはざらですし、何より愛好家や博物館が、貴重な歴史史料として後世にまで伝えてくれます。
話が横道にずれてしまいました。
慶長小判と併せて発行された小額貨幣
1枚10万円のお札が、財布に入っていると考えてください。そんなお金、めちゃくちゃ使いにくくないですか? 現在の日本の最高額紙幣は1万円札ですが、この金額ですら世界的にみるとかなり異様な高額です。サラリーマンのお財布の中に3万円も入っていれば「今月はまだ余裕」とウハウハできることでしょう。私なんか、5000円でもわくわくしちゃいます。
これが10万円を超えてしまうと、ウハウハよりもドキドキが勝ってきませんか?
高額過ぎる貨幣というのは、存外使い勝手が悪いのです。高額貨幣が喜ばれるのは納税シーズンくらい。そこで普段使い用として登場するのが、額面を小さくした貨幣です。現在の日本で言うならば、1000円札、2000円札、5000円札にあたる金貨でした。
慶長一分金は、金座で発行した小型の金貨です。額面は1分。すなわち(4分の1両)にあたりました。小額とはいえ2万5,000円相当ですが、それでも10万円札の小判よりはまだ持ち歩けます……。
発行は慶長小判と同じ慶長6(1601)年です。4進数なのは、武田家の甲州金を参考にしたからですが、そもそも何故武田家が4進数にしたかというと、重さを揃えやすいからです。
前回、金貨を作る際は、品位を揃えた棹状の形に錬成し直すことを説明しました。何故、一度わざわざ棹状に加工するのか。
その答えがこれです。
棹を伸ばして両端をそろえ、半分に切断をすれば簡単に重量を二分にできます。正確な計測前に、おおよその重量分割が行えるわけです。金貨は元々秤量貨幣であり、価値の基準を重量に依存していたわけですから、計量がより簡単になる2のn乗進数の計数法に落ち着くのは極めて自然でした。
慶長小判の4分の1の価値である慶長一分金は、この法則を厳密に守っています。品位は金 857/銀 143と、慶長小判と同等。量目は平均 4.43gであり、慶長小判の重量17.45gのほぼ4分の1となっています。
江戸時代初期は、まだ戦国時代と地続きです。なので額面に価値を従わせる計数貨幣にしたとはいえ、やはり秤量貨幣であったころの名残が見えます。これが、幕末になると、金貨とは名ばかりの混ぜ物だらけの一分金が発行されたり、額面一分の銀貨が登場したりと、秤量であることは忘れ去られていきます。
サイズは縦で2cmを超えることはまずなく平均して18.6㎜とされていますが、別に正確にサイズが決まっているわけではありません。重さが基準となっているので当然です。
表面には上下にそれぞれ桐紋。その間に挟まれるかたちで横書きで額面の「一分」が描かれています。裏面には、金座の検査を合格した証として上部に「光次」の署名、下部に「後藤家」の花押が打刻されています。慶長小判にも刻まれたこの光次の署名と花押ですが、光次の死後も慣習として使用され続けました。
なお、慶長小判には裏面に吹所で製造を担当した小判師の極印が入っていましたが、本貨は小さいため省略されています。
違和感のある四角い貨幣はいったいどこから?
一分金は、それまでの日本の貨幣では見当たらない、長方形の貨幣です。本貨の発行前、「額一分金」という長方形の貨幣が発行されていたようです。古くから、豊臣秀吉が命じて作らせたという風に伝わっていましたので「大坂一分金」の名前で知られていますが、この貨幣の背面にも「光次」の花押が刻まれています。
このことから、現在額一分金は、徳川家康が慶長一分金を発行する前段階に作らせた試鋳貨、あるいは地域限定で流通させた領国貨幣(戦国時代から江戸時代初期に掛けて、各地の大名が領内通用として鋳造を命じた金銀貨)の類ではないかという説が有力です。
家康の中には、最初から”四角”という構想があったのかもしれません。ちなみに、彼が参考とした甲州金には「甲州角朱中金」「甲州糸目金」など、小額硬貨の中には四角いものがありました。が、古甲州金はあくまで甲斐のみの流通でしたので、慶長一分金ほど形状の統一は行なわれていません。
長方形の貨幣、特に金貨となると、世界的には嫌われていました。金は大変柔らかい金属ですので、角があると使用しているうちにその部分から徐々に削れていってしまうからです。
この四角という形状がどのように決定したかはよく分かっていません。ただ、明治維新時に貨幣を改める際に、小額硬貨を円形にするか、長方形にするかでもめていた記録が残っております。長方形派は、長方形なら従来のように箱に詰めて計数しやすいことを推薦理由として述べており、江戸時代には長方形であることを利用して、箱に敷き詰めて計量を行っていたことがわかります。
長方形であったために生まれた一分金の"片本"
とはいえ、基本は、最高額の金貨として財布に入れて持ち歩くお金ですので、当然使用していくうちに目方はどんどんと減少しました。さらに、金ですので、何らかの拍子に踏んだり強い圧力をかけたりすると文字がつぶれたり、割れたりしてしまいます。
このような傷ついた金貨は、両替商に持ち込まれ状態のいいものと交換されることになりました。
市中から両替商の元に集められた傷ついた一分金は、そのまま金座に回収されます。金座では、これらの金貨を再溶解し、正しい重量に揃えて作りなおしました。
この際、一分金の裏面の右上に、改修品で重量を揃えたことを証明するために「本」の字を書き加えています。このような慶長一分金を「慶長片本一分金」などと呼んでいます。
「片本」は、目に見えてわかりやすいため素人でも見分けられますが、このような金貨の直しは、江戸時代を通じて定期的に行われていました。現在残っている金貨の中には明らかに、鋳造後に追加で目方を合わせるために金を足したような痕跡の残るものも多々発見されています。もっとも、このような面白い歴史を歩んだ金貨は、貨幣カタログなどの分類にはあまり登場しません。博物館に展示される金貨も、状態がよいままのものが優先される傾向にあるため、実際に古銭商などに行き、お店の人に頼んで見せてもらうのが一番でしょう。