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短編小説『コンパス』
僕は、何も持っていなかった。
貧乏な家庭に生まれ、周りから馬鹿にされ、
幼いころからいつも孤立していた。
そんな僕には、僕と正反対の幼馴染がいた。
温かく豊かな家庭、整った容姿、人当たりの良い性格。
彼は、全てを持っていた。
彼の周りにはいつも人が集まった。
なぜなら彼は、多くのものを周りに与えていたからだ。
僕にはない、多くのものをもつ彼を見ていると、
いつしか僕の中に、憧れという感情が芽生えた。
僕は、僕を変えたかった。
幼馴染の彼のように、誰かに何かを与えられる人間になりたいと願った。
ある日、僕は幼馴染の彼に夢を語った。
僕の願いを、彼に聞いてほしかった。
頑張る姿を見てほしかった。
しかし、彼の耳に僕の声は届いていないようだった。
僕は不思議だった。
すべてをもっているはずの彼の目が、無色のガラス玉に見えたような気がした。
気のせいだ、と思った。
時がたった。
僕は、幼馴染の彼のようになりたくて努力する毎日だった。
その道のりは果てしなかった。
うまくいくことより、うまくいかないことのほうが多かった。
それでも僕には目指す方向があった。
だから、その道のりを楽しいと感じられた。
たとえどんなに遠くても、昨日より今日は確実に近づいていると思えた。
ある日僕は、久しぶりに幼馴染の彼に会った。
久しぶりに会えたことが嬉しく、
今の自分を見てほしいと思い、無我夢中で語った。
しかし、彼の耳に僕の声は届いていないようだった。
僕は、違和感を感じた。
すべてをもっているはずの彼の目が、くすんだガラス玉に見えたような気がした。
その夜、僕は考えた。
あの感覚は、一体何だったのだろう。
なぜ満ち足りているはずの彼から、寂しさのような、無機質な冷たさを感じるのだろうか。
僕は、考えた。
なかなか答えが見つからなかった。
考えてばかりいると、息が詰まった。
考えるよりも、行動をしたほうがずっと解決が早いことは、今までの経験から知っていた。
そこで僕は、いろんな人に聞いてみた。
満ちたりているのに、満たされないことはあるのか?と。
ある人は言った。
すべてを持っていると、目標を立てる必要がないから、どこを目指して走ればいいか分からないのではないか?
なるほど、と僕は思った。
また、ある人は言った。
はじめからすべてを与えられてしまうと、
自分で自分を満たす喜びを感じられないのではないか?
なるほど、と僕は思った。
さらに、ある人は言った。
最初から満ち足りている人は、
それが満ち足りていることだと知らないのではないか?
なるほど、と僕は思った。
ある日、耳を疑う現実が突きつけられた。
幼馴染の彼が、大きな事故に巻き込まれた。
幸い、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残ったらしい。
僕は、ショックを隠せなかった。
すぐにでも会いに行きたかったが、
彼の気持ちを考えると、事故から少し時間を開けるべきだと思った。
きっと気持ちの整理には時間がかかるはずだ、と。
だから僕は、さらに自分の夢への努力に専念した。
いつか、彼と再会できたとき、胸を張って会えるように。
時がたった。
僕は、久々に幼馴染の彼に会いに行った。
彼は、僕に会ってはくれなかった。
それでも僕は、諦めなかった。
彼はいつだって僕の原動力だった。
そして、これからもそれは変わらない。
僕にとって、彼が目指すべき目標であることは変わらないのだ。
僕は、何度も何度も彼に会いに行った。
そしてついに、彼は僕に会ってくれた。
久しぶりに再会した幼馴染。
その姿を見たとき、僕は驚いた。
彼の右半身が動かなくなっていたことに驚いたのではない。
彼の目に、僕がちゃんと映っているように見えたことに、とても驚いたのだ。
昔から感じていた、無機質な冷たさが、和らいでいるように思った。
だから僕は思わず、いつもなら言わない言葉を彼にかけていた。
「君の夢は?」
そんな言葉をかけるつもりはなかった。
自由を失った彼に向けるには、無神経な言葉だとわかっていた。
でも、僕は、今の彼に必要な問いかけだと思った。譲れなかった。
「見てわかるだろ。右手も右足も動かない。
たくさんのものを失って絶望的だ。夢なんて見れるわけがない。」
案の定、彼は大変不愉快そうに、そう言い放った。
それでも僕は、どうしても伝えたかった。
「失ったから、見れるんだよ。」
そこまで伝えると、僕は彼の部屋をあとにした。
帰り道、僕は考えた。そして気づいた。
僕は、昔から何ももっていない。
人から尊敬されることもない。
それでも、僕は、僕の人生が好きだと言えた。
それはなぜか。
それは、僕が何も持っていなかったから。
何かを持っている存在になりたい、という生きる目的を得たから。
そして、彼という、目指す方向を示すコンパスを見つけられたから。
僕が、彼に出会えたから。
僕の目からは、涙が溢れていた。
この世界が、急にたまらなく愛おしくなった。
僕はまたいつか必ず、彼と再会することを誓った。
時が過ぎた。
僕は、幼馴染の彼と再会した。
僕は、あの頃と変わらずに、夢中で夢を語った。
そして、彼も僕に夢を語ってくれた。
くすんだガラス玉のような目をした彼はもういなかった。
キラキラと鮮やかな色を放つ、僕のコンパスがそこにはあった。
僕の目指すべき方向は、今も昔も、一つも変わらないと確信した。
いつも、僕を導いてくれてありがとう。
そして僕が、僕で生まれてこれたことに、ありがとう。
僕は、感謝が溢れて笑った。
彼も、初めて僕の目を見て、笑った。