世界観
―「好き」って感情は理解出来ても、「恋しい」っていう感情は理解できない気がする。炭酸の泡が弾けていくように、口に含んだ綿菓子が消えていくように、脆く儚い青春。誰もが急に大人びて、生き急ぐ不思議な季節。でも、人生を丸ごと例えるなら、丁度梅雨にあたると思う。じめじめ、じめじめ、鬱陶しい。―
「………ね、そう思わなぁい?」
酒瓶片手に女は叫んだ。ボサボサの髪を掻き上げながら、タンクトップの猫に百面相をさせながら。
「美雨、下着見えてるよ。スカートで胡座とか……。私の家だからって遠慮無さすぎ。」
何度目か知れない注意を気にも留めず、女は酒瓶を振り回す。実はこの酔っぱらい、一月ほど前に押し掛けて来てから、ずっとここに居座っている。何があったのかは知らないが、毎夜、毎夜、酒をのみ、こっ恥ずかしい持論を大声で展開するのだから堪らない。
「一人暮らしの部屋から独り論争が聞こえる」と、私は今やご近所中から太鼓判を押された立派な不審者である。
「この間、隣の親子を見かけて挨拶したらさ、『こら、近寄っちゃいけません!』って逃げられたんだけど、って…」
いい加減に出てけ、とは続けられずに口を噤む。
「泣きたいのはこっちだよ…。もう……。」
彼女は、私が涙に弱いと計算して泣いているわけではないだろう。それが分かりきっているから、余計に無下にできなくなる。二度目の溜め息とティッシュ箱を渡して、仕方なく布団を敷いた。
泣き疲れて眠る幼い子供のような寝顔を眺めながら、遅い夕食を一人で食べる。外の雨音と美雨の寝息が、随分と遠く聞こえた。ざあざあザア……くうくうク……
「夜の炭水化物は太るんだよ‼」
不意に、聞き慣れた声が聞こえた。味が変わらないように、パスタの皿を少し遠ざける。ティッシュを目頭にあてがってから、ゆっくりと目を閉じた。
美雨と二人きりになると思い出す、一つの物語がある。机の引き出しに眠る猫のブックマークが、バッグにぶら下がる猫のキーホルダーが、写真立てに入れたお気に入りの絵が、自分を誇張するようにぼんやり輝いて見える、気がする。
女の子の声が聞こえた。少しこもったような、高いけど、耳に優しくて、マリンバを撫でるみたいな、響きの、怒鳴り声。
美雨はよく眠っている。外は雨。世界に独り。ただ独り。こんなにたっぷり、独り。
外へ出た。傘をさして顔を隠す。
ピリリと雨を裂いていく。 歩き始めて30分の、静かに塗りつぶされた森 。
思いっきり私は、歌った。空気が悲鳴をあげる。雨が必死に修復する。
歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復歌声悲鳴修復
「……かなか‼…」
声が呼ぶ。真っ黒な穴の中、真っ直ぐに落ちていく声が呼ぶ。
「…‼」
今度はさっきより近く届いた。
穴の中で、何かがぬらりと光ったような。
せーの‼‼‼‼
だから言ったじゃないか。目が合うが早いか彼女はそう言って僕を穴から引っ張り出した。口を河豚みたいに膨らませて、仁王立ちで。
「炭水化物はっ、」
「太るんでしょ?」
「何だ、覚えてんじゃん。」
僕はゆっくり土を払う。
「ォコッコケコッッ!」
「……ヨキケホーホ」
変な鳥の鳴き声に、空からぶら下がるような格好で茂る草木。上は空で下は地面なのに、どこに重力がかかるかさえ忘れてしまいそうな妙な感覚。僕は前に一度、ここに来たことがある。
両脇で逆さまに叫ぶ、鶏と鶯。
真後ろで地にめり込んだ檜の葉。
目の前の、少年みたいな少女。
僕は存分に溜め息を吐ききってから、息をゆっくり吸い込んだ。
「久しぶり。」
「ん、お帰り。」
軽く返ってくる。まるでちょっと買い物にでも行ってきたみたいな錯覚に、襲われる。涙が浮かびそうな目をゆっくりと閉じた。
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