現世において「悟る(解脱する)」ためには、何を実践する必要があるのでしょうか。
まず、私たちが悟りに達するための基本的な道筋が、厭離(無執着)から離貧(欲から心を解き放つこと)、離貧から解脱、そして解脱から解脱知見(解脱を知る智慧)へという流れです。では、この道筋を成就するために、実践者が具体的にやらなければならないことはなんでしょうか。
現世における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは「気づき」であり、その流れは智慧によって塞がれます。つまり、自然のままに放っておけば対象への執着へと流れていく煩悩の働きを、まず止めるものは気づきであり、そしてその流れを塞ぐ、即ち根絶するのが、智慧であるということです。
この「気づき」というのは、現状に気づいており、自覚的であることだと、考えておいていいでしょう。 つまり、認知が起きた時に、修行者の内面に対象への貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と自覚します。
以上を修習するための方法として、マインドフルネス瞑想があります。これは、サマタ瞑想(止)とヴィッパサナー瞑想(観)をセットしたものです。サマタ瞑想は呼吸瞑想と言われ、ヴィッパサナー瞑想は気づきの瞑想と言われます。サマタ瞑想で養った集中力でもって、ヴィッパサナー瞑想では身体を観察していきます。また、ヴィパサナー瞑想である四念処観の四念処とは「四つの念ずる処」ということです。それはどこにマインドフルに注意を向けるかを教えるものです。その念ずる処とは、「身(身体感覚)」「受(感情反応)」「心(認知反応)」「法(世界観・法則性)」の四つです。
この四念処(における気づきの実践)こそが悟り・解脱を実現するための「唯一の道」であるとも言われています。
この気づきの実践について、それがマインドフルネスと英訳され、世界中からいま注目されています。またそれは「衆生が癖によって盲目的に行為し続けている状態(煩悩)を差し止めるために行う実践でもあります。
即ち、歩いている時には「歩いている」、立っている時には「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き渡らせて、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている。そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが、気づきの実践になるわけです。
このような気づきの実践を行って、内外の認知において生成し消滅する現象を観察し続けることで、修行者は苦なる現象を厭離(厭い離れて)、離貪して(貪りを離れて)、執着することがなくなります。
マインドフルネスが日常化し、自分の行為に常に意識を行き渡らせている修行者は、現象をありのままに見て(如実知見して)、それを実体視することがありません。そして、仮に内面に貪欲が起こったとしても、それもまた一つの現象として、ただ「ある」と気づくだけで、それを執着に発展させることがないのです。
ただ、それを本当の意味で実現するには、煩悩の流れを単に「堰き止める」だけではなくて、それを智慧によって「塞ぐ」こと、即ち、煩悩を残りなく滅尽することが必要です。
(参考文献:「仏教思想のゼロポイント」魚川裕司 著、新潮社 および「武術瞑想」湯川慎太郎、誠心書房)
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