生きる、ってなんだ
その名前を知ったのは、詩人としてではなく、外国語で書かれた話を日本語に書き換えた人、としてだった。僕が小学校2年生の頃のことだ。
輪郭がなく、混色の紙片を繋ぎ合わせたような絵と、独特の言葉遣い、何より終盤の鮮やかな展開に、子ども心に教科書って素敵な話もあるんだ、と思ったものだ。
「スイミー」の訳者は谷川俊太郎だった。
以来、彼の名は詩人として様々なところで目にするようになり、イルカやカッパの詩も得意になって暗誦したものだ。何年生だったか忘れてしまったが、ひと学年120人くらいで「生きる」という詩を群読した。
その詩を初めて目にした時の感動は今でも覚えている。短い言葉で、生きているということを、何度も何度も繰り返し見せてくれた。日々のいいことも嫌なことも、こんなに短い言葉で、表現できるのかと驚いた。
創作や表現をしている人ならば、きっと彼の影響をどこかで受けているのではないかと思う。それは言葉遣いとかそういう技術的なことではなくて、言葉にすることの動機のような、それこそ“生きていること”を言葉にすることの正当性のようなものだ。
毎週木曜日に書いている、読書記録(書もつ)で「本を読んでいる瞬間」を集めた写真集を紹介したことがあった。世界中のあらゆる人々が様々な場所で本を読んでいる写真が集められていた。写真に注釈はなく、基本的にカメラを意識していない、モノクロの写真たちに時代も国も人種も飛び越えた“本を読む人たち”を感じた。
その作品の冒頭、谷川が詩を寄せていた。
本を読んでいるときには、世界のどこかで同じように本を読んでいる人がいる。それはすごいことだ、といったようなことが書いてあったはずだ。
本を読むことの意味は、それぞれの個人によって異なってくるけれども、本を読むことを選び時間を割いていることは、素敵なことだ。
書くことと読むことは表裏一体である。彼の作品の裏側には、きっと膨大な読書量があったのではないかと思う。彼のエッセイを読んだことがないと気がついて、今更ハッとしている。
生きているということ
いま生きているということ
それは
そうやって始まる彼の作品に、僕なりの続きを書くとしたら、果たして何を選ぶのだろうと考える。
ご冥福をお祈りします