6年生の僕と、あの日
【阪神淡路大震災に関連した投稿です。読み進めるのが不安な方は、ご注意ください。】
あの日、朝起きると母が「大阪で大きな地震があったみたい」と言い、テレビを観ていた。
画面には別世界が映っていた。ビルらしきものが斜めに傾き、大きな橋のようなものが倒れ、あちこちから煙のようなものが見えた。
大阪には親戚が暮らしていたし、当時好きだったゲーム“桃鉄”で何度も通った駅だったから、場所の感覚はあるけれど、その街がこんなになるなんて。相当大きな地震だったのだろう。
今年で30年が経つ。当時、僕は小学6年生だった。
寒い寒いと言いながら、ガスファンヒーターの電源を入れ、服を着替え、炊き立てのご飯を炊飯器からよそい、まだ熱い味噌汁に顔をしかめながら、テレビを観ていた。
当時まだ知らなかった「被災地」という言葉。水も電気もなく、寒くて絶望的な現実があることを、想像なんてできなかった。
朝になれば、また学校が始まる。学校から帰って夕方が来て、家族で晩御飯を食べて、ぼんやりテレビを観て、お風呂に入る。当たり前だと思っていた生活が、突然無くなってしまうなんて、全く信じられないことだった。
以前の職場に、地元が神戸だという方がいた。震災のあったときには、高校生だったそうで、学校までの景色が「何にもなくなって、焼け野原みたいだった」と仰っていたことがあった。
その景色を想像して、失われたのは目に見えていた建物だけじゃなくて、もしかしたら友人関係も変化していたり、自宅から通えない人もいただろうと思うと、いたたまれない気持ちになった。
そんな経験をしていれば、学校に行けること、友達に会えることの喜びを、例えば子どもに、熱を伴って伝えられるかもしれない。
震災を契機に、ボランティアという言葉が広まり、NPOを組織するための法律ができて、神戸を皮切りに全国で次々に発足した。壊滅状態になった街の復興は並大抵のことではないし、今もまだ残る爪痕のようなものがあるかもしれない。
それぞれの自治体の職員の皆さんのご苦労を思うと、胸が痛い。きっと、住民のために働くことが、今の時代よりも強く求められていたはずだ。同業者として本音をいえば、正直怖い。家族や災害対応に関わる仕事とのバランスなんて、取れるのだろうか。
30年前の僕は、小学校内で組織された委員会で活動をしており、募金や学用品の寄付を集めた。僕自身が被災地のためにできたのは、僅かな募金だけだった。そんな僕が、大人になって公務員になっているのだから、人生は分からない。
いま、自分自身や家族を守るための備えが万全かというと、とても不安だ。日中の活動場所も、保育園、学校、職場であり、特に僕は自宅から距離がある。
生き延びるためのハード面の整備は、日本全国で進められているけれど、かたや地域でのつながりのような人的な強さのようなものは、あの頃から変化していのかもしれない。
デザイン・クリエイティブセンター神戸による「30年目の手記」。すでに応募期間が終了しているが、集められた手記の数々を読むことができる。