だれかの
ある僕の投稿に、フォローしているおだんごさんから「自分の葛藤が誰かの救いになること前提で書いている」とのコメントをいただきました。
その説得力に、唸ってしまいました。
自分が書いたものを誰かが健全に受け取ってくれるという、その信頼感と安心感。僕はそんなふうに考えて書くことはあまりないので、おだんごさんの文章から伝わる力強さを改めて感じたのでした。
エッセイの可能性(韻を踏んでいて書いててぷっとしてしまう)を見たようで、なるほど僕ももっと意識しても良いのかなと思ったのです。
自分のことばかりを書き、また自分だけが心地良くなること、それはひとつの効能でもあるし、それを楽しんで書いていることは良いことだと思います。(僕がそのひとり)
ただ、読んでくれる方がいることは、書いているのとは別の意図がそれぞれにあるはずで。そこに期待してもいいのか、とちょっと嬉しくなったわけです。
スキの数や、フォロワーの増減など、一喜一憂することがありますが、それはいつも思っているように僕がどうこうできる数字ではないのです。
でも、読み手がどう読んでくれたか、というのはとても興味深いのです。
スキが多いと、なんとなく好意的に受け取ってもらえたかなとか、コメントがあると、なるほどそこを読んでもらえたのかとか。
毎日読んでくださる方でも、きっと毎日同じ心持ちで読んでくださる方はいないでしょう。平熱だ穏やかだと(自分で言うな)看板を掲げているけれども、そうじゃない投稿もあります。
書いて終わりではなくて、読んでもらって終わり、なのか、それとも始まりなのかも知れませんが。
とにかく、書くことで、自分だけでない世界が少し変わるのかもと思うと、楽しみでもあります。
本を読んで、少し変わった自分のことを書いて、さらにそれを読んでくれた方が、その本を読んでみたり、読んだことを思い出してみたり。
それは、わずかな時間だけれど、僕の話を聞いてくれたような感触を感じるのです。何者でもない僕が、ひとりで話している。“だけではない”ことを、改めておだんごさんに教えてもらったのでした。
書いていることは僕自身のためですが、思いがけず、読んでくれた方に何か届いたなら、(こっそり)教えてくださると、なるほどそういう力があったのかと、励まされるはずです。
この読み手に呼びかけちゃう感じが僕は上手く書けなくて、白々しい表現というか、タイミングが悪いというか、浮いてしまう感じで、読んでいる側にも、なんかすみません、って思ったりして。
僕が誰かの投稿を読む時は、先を想像しながら読むので、そう来たか!に弱いのです。エッセイはそれが何度も起こる。だから、読んでも書いても楽しいのかなと、考えすぎました(笑)