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ロスト・リング

「ねぇパパ、ちょっと指輪見せてよ」

子が言った。

子の習い事に付き添って、子が絵を描いている横で本を読んでいた僕は、うまく外せるといいなぁ、指太くなってないよなぁと思いながら、右手の親指で、左手の薬指のつけ根を触った。

・・・

な い

薬指のつけ根にあるはずの指輪、大切な結婚指輪が忽然と姿を消していた。普段からつけ外しをする訳でもなく、着けっぱなし、のはずだった。

いったいどこで外したのだろう。

ない、と呟いた途端にぼんやりした僕を見て、子はニヤニヤしながら静かに囃し立てる。「あー、ママに言っちゃおー。パパ、指輪なくしたーって。」

指輪を外す状況など多くはない、記憶を辿ると案外すぐに思い出した。

それは2ヶ月も前、大腸検査の内視鏡検査の時だ。診察着に着替える直前に「指輪も外してくださいねー」と告げられたのだった。

当時は早朝から、あの端的に口に合わない液体を何度も飲んでいた。かわいい象のキャラクターが描いてあったが、まったく可愛げのない匂いが、信じられないほどにテンションを下げる。

お腹を空っぽにするためとはいえ、頭も心も無にして挑まねばならぬとは、健康保持へのコスパは計り知れない。

時間に遅れぬよう調節したものの、やはりたくさん飲むことはできず、検査ができますように、と祈るような気持ちでもあった。とにかく元気もないし、判断力も鈍っていた。

当時、指輪を外して、自分の履いてきたズボンのポケットには入れた…のだが、そのあとを全く覚えていなかった。おそらく、自宅の洗濯機でガラガラと洗われ、排水とともに流れてしまったのかも知れない。念のため洗濯槽の底を外して探してみたが、それらしきものはなかった。

普段からアクセサリーをつけることがないので、指輪を付け外しすること自体、そういう検査の時だけ。外しても保管する場所もなければ、他に指輪なんて持ってもいない。正直なところ、自分自身でもすっかり忘れてしまっていて、驚いて呆れた。

言い訳のように、仕事やら子どものことで忙しくしている間に、時間が過ぎて、先日、ようやく自分の休みが取れた時に、お店にいった。実は通勤経路の途中に、当時買ったお店の支店があった。紛失に気がついてから、実に4ヶ月が経っていた。

ブライダルリング専門店だからか、商品数は多くないけれど、商談スペースがいくつもあった。

「指輪を紛失してしまって」

それを告げた瞬間、店員さんの顔がサッと変わった。「それは大変でしたね」と顔に書いてあるけれど、口頭でも伝えてくれた。そして、奥へ案内された。2人がけのスペースに男ひとりで座る。

「電話番号でお調べできますので」と渡されたタブレットに電話番号を入力した。当時購入したのは、銀座店だった。銀座なんてもう何年も行っていない。聞き覚えのないデザイン名がついていた。結婚を決めたのが挙式の半年前だったので、指輪の購入は婚約指輪と結婚指輪を同時に買ったのだった。今回は、いくらになるのだろう。

「紛失された場合は、20%のご優待が適用されます」

そういうシステムなのかと、見えないように静かに膝を打った。確かに、あんなに小さいものは失くなりやすい(だからって失くして良いわけではない)。

車や家を購入した時のように、ドリンクが出てきた。高い買い物には、たいていドリンクがつく。

ドリンクを飲んでいたら、手書きの見積書が出てきて驚いた。このご時世に、手書きで数字が並んでいる…タブレットどこいった。提示されていた金額は、紛失優待が効いているからか、予想していたよりも安かった。

納期については通常1ヶ月程度だが、一般的なサイズのものであれば、1万円追加すれば2週間に早めることができるとも言われ、さらにその1万円も優待が効くという、謎の至れり尽くせり状態。

指輪がないことも、指輪を買おうとしていることも妻は知っていたから、内緒でも急ぎでもないし、みすみす1万円(実際は8千円)を支払う道理はない。

LINEの友だち登録だとか、登録住所の変更だとか、諸々の事務手続きを終えて店を後にする。

結婚記念日には間に合いそうだ。




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