緩やかな坂道の上にやけに赤みがかった月が浮いている。流した涙と同じ分量の痛みをまるめて固めると、今夜の月のようになる気がした。 いまやらなければ穴からは這いだせない。やっとの思いでここまできたんだ。平井泉は震える手足を同体からもぎ取りたかった。 追い打ちをかけるように坂下からヒールの音が近づいてくる。携帯で誰かと話しをしている。笑い声が聞こえる。 プラタナスの街路樹の陰に隠れていた泉はよろめきうずくまった。父さえ生きていれば過去を穴の底に沈められただろう。一人ぼ
〈1〉 レモンの匂いで目が覚めた。 どうしてこんなにゆったりとした気分なの? 見覚えのない部屋のベッドに横たわるイチコは、隣で静かに寝息を立てている男の背中を眺める。象牙色の羽のような肩甲骨が浮きでている。とりとめのない記憶を頭の中で手繰りよせる。 身体の関係は持っていない、はずなんだけど……。脱がされているのはカーディガンとジーンズだけ。ブラウスはきちんとボタンが掛けられている。靴下も履いている。もちろんショーツも。手で確かめたいけど何故か固
「月がきれいだねぇ」 隣を歩くタカシから返事がないことは、ユミコが一番知っている。彼にはがどうであろうと何の意味ももたない。 それでも橋の向こう側にある駅の屋根の上に細くはかなげにかかる三日月をみると、口に出して言わないと勿体無いような気がする。 10月も半ば、夕方の5時過ぎにもなると、歩く人間が影絵に変わっていく。そしてそれは深呼吸をし終える頃には人も風景も輪郭が暗闇へと消えていくのだ。その一瞬の神秘を口に出してしまうことは無意味。それでも、それを口に出してしまうというミ
りんごの皮をむく。半分は昨日食べていた。手に持っているりんごはラップにくるまれ冷蔵庫で眠っていたため、みずみずしさは損なわれていなかった。半分のりんごをその半分に切った。まっぷたつに割れたりんごが左の掌の上で左右に傾き、その内側を見せる。実の表面の白さは掌に隠された昨日の表面とは違って見えた。 靖子は白い皿にほんのり黄色い実を四切れ並べてキッチンのテーブルに置いた。食器棚の引き出しから取り出したフォークを突き刺し口に運ぶ。 仕事をしようと思い立ってから二ヵ月が過ぎよ