自己解釈:ニーチェ哲学論(前編
ふと思い立って、ニーチェ哲学についてざっくりと解説した記事を書こうと思う。
が、最初に断っておかないといけないのは、今から書くことは多分間違ってないと思っているが、解釈が独特に過ぎたり、或いは根本的な勘違いをしている可能性もある。
別に私は大学で哲学を専攻していたわけでも無く、有識者にこの解釈で間違っていないか確認したわけでもない。自らの生きてきた時間の中で築き上げてきたmy哲学と、ニーチェの本を読んで知った哲学が非常に近かったと感じたから、ニーチェを再解釈することでmy哲学を補強した、ぐらいの感覚でしかない。そしてそれでいいと思っている(理由は後程)。
いずれにせよ、原典主義的な正しさは持ち合わせていない代わりに、かみ砕いた末の分かりやすさを重視した解説にはなると思うので、出来ればこれを読んだうえで改めてちゃんと各種出版物で学んでみていただければと思う。
神は死んだ、ニヒリズム
ニーチェといえば、高校時代に授業で聞いたが殆どうろ覚えの人が多いだろう。ただなんとなく、「神は死んだ」と「ニヒリズム」は言葉のインパクトの大きさから覚えている人もいるのではないだろうか。
だからまずはこの二つの意味と関係性からスタートしよう。
神=絶対者、絶対物
まず重要なこととして、「神は死んだ」というのは決して直接的にゼウスが死んだ、キリストが死んだなどという意味ではない。
ここでの神というのは神話上の創造主を示しているのではなく、神と呼ばれる絶対者を寄る辺にする時代は終わった、という意味だ。更にかみ砕いて話そうか。
あなたが物を考えるとき、何を基準にして考えるだろうか?
多そうなのは「常識的に考える」とか「論理的、科学的に考える」だろうか。
いずれにせよ、多くの人は
「この場合○○するのが本来正しい。けど今回はこういう特殊な事情があってそう簡単に○○するのは難しい」
というような悩み方をしていると思う。
一般常識や論理、科学、統計といった、何かしらの基準点を基に思考を進めるだろう。そして多くの場合それらの基準点は、それぞれが絶対的、即ち普遍的で不変な確からしいと信じるに足るものであるはずだ。
そして「神は死んだ」とはまさにそんなものは無いと言い切った言葉なのだ。
そんなものって何かって?
「絶対的、即ち普遍的で不変な確からしいと信じるに足るもの」なんて無いと言い切った言葉なのだ。
ニーチェの時代、この絶対普遍的真実とはキリスト教だった。絶対的な存在である神の教えという裏付けを持って、キリスト教が常識を形作っていた時代らしい。
だが人々が(当初は皮肉にも神秘的な神に近づこうとした)自然科学を発展させていくにつれて、神の存在の絶対性は揺らいだ。揺らぎが生じた時点で絶対ではなくなり、その教えももはや確かとは言えない。
じゃあこの言葉がキリスト教徒でない私たちに関係ないことなのかというと決してそうではない。無宗教者を名乗る日本人が信じているもの、それは一般常識や世間体、或いは科学的論理的統計的基準だろう。
コロナで常識が一変し、科学による人類の発展が人類の全苦悩を解決出来るわけでは無いと見え始めた今、徐々にニヒリズムに陥る人は増えているし、これからも増えていくだろう。
苦しみだらけの人生での指針を見失って途方に暮れるのがニヒリズム
常識信者や科学信者の皆さんはまだ、実感わかないかもしれないので、一つの例を用いてニヒリズムを解説しようと思う。
例えばハワイに行ってと言われたらどうしますか?
うん、まずは旅行会社やハワイへの飛行機を探すでしょうが今回は自力で行くと仮定して。
海を越えなければいけないので方位磁針やGPS、航海地図を用いてボートで行くことになるでしょう。
では次に海面が無かったらどうします? はい、方位磁針やGPSではなく、海面です。あなたの現在地は宇宙で、宇宙空間に漂っている状況なのです。それとついでに言うと地球がどこにあるかも現時点では分からないです。辺りには宇宙ゴミが飛んでいて、あなたの来ている宇宙服に時折ぶつかります。ハワイに行くどころの問題ではありませんよね。そもそもこの後どうやって生きて行けというのだと不貞腐れたくもなります。
お待たせしました。物凄く雑に言うとその感情、態度がニヒリズムです。
順番に説明していきましょう。
先ほどの例えではまず、ハワイへ行く手段、という問題を考えるため方位磁針やGPS、航海地図を使おうとしましたよね。
これがニーチェの時代ではキリスト教的常識や、牧師さんのお説教だったりしたのです。
そしてその世界観の中で、突然神が死んだといわれると、例えで言えば地面や海面が消えると同然です。当然あるものとして前提にされていた確からしいものが忽然と消え、前提に成り立ってきた様々な技術も指針も役に立たなくなる。
そうなると大体の人は途方に暮れるでしょう。そして途方に暮れ硬直している間にも困難はやってくる。
「どうしろってんだよ」なんて愚痴を吐いて不貞腐れたくもなりますよね。
因みにこの例、実は敢えて一番重要なポイントをボカシているのです。
それはハワイとは何か、厳密にはハワイとはキリスト教的天国、つまり「ここに行けば人生が報われる」というゴールです。
そしてハワイは海面と一緒に陽炎と消えた。
判断基準を失ったばかりでなく、同時に安寧の地も消えて、希望を失った末に生きる意義を見失う。この心理状況がニヒリズムです。
覚えが無いでしょうか?
「年金制度、自分たちが受け取る側になったときにちゃんと受給できるのか」
「グローバリズムの先で感染症の世界的蔓延があるのなら今後それでいいのか」
「就職氷河期で新卒採用してもらえなかった。道を外れた自分はどうすればいいのか」
社会が肯定してきた幸せの順路が揺らいだ時に、自分の将来が不安になったこと。そしてその先不安に押しつぶされて投げやりになってしまったこと。そして頑張っても仕方が無いと諦め、ただ無難で安楽な生活だけを望んでしまった経験は無いでしょうか?
ニヒリズムの先で、ここまで前向きに生きる力を失ってしまった人はニーチェ哲学では末人と呼ばれています。
信じていたものに疑念が生じ、連動して様々な価値観や目的地が瓦解する
ここまでいかがだったでしょうか。価値観の根底を揺さぶられる恐怖を感じていただけたでしょうか。思い出していただけたでしょうか。
「神は死んだ」そのショックでニヒリズムに陥り、ただなるべく苦しまずに居たいという末人になってしまう。
非常にどこかで見覚えのある流れで、人によっては身に覚えがある人もあるそら恐ろしい流れだと思いませんか?
でも大丈夫、ニヒリズムの先でどう立ち向かっていけばいいか、それもニーチェが教えてくれています。
力への意思と超人思想
ニヒリズムの危険性を説明した上で、ニーチェは発想の転換である「力への意思」という新たな基準と、目指すべき超人という理想を掲げた。
超人思想は中々理解するのが難しいものではあるのだが、力への意思は人によっては大きな衝撃をもたらす考え方だと思うので是非読んでみて欲しい。
絶対的な真理
哲学への造詣が深い人は頷いてくれると思うが、古来から真理の探究は多くの哲学者にとっての課題だった。
ざっくりと説明すると。
・リンゴを見て「甘い」「酸っぱい」「150円」「ニュートン」「iphone」と人それぞれ別の認識をする。だとすれば人の主観というのは不完全なものなのではないか。(懐疑主義、相対主義)
・だとしても唯一完全絶対な真理というのは存在はするはずだ(真理主義)
・その真理は現実世界とは別の世界を形成している(形而上学)
・人間は自分の認識の範囲でしか物事を把握出来ないから、人には真理は掴めない。真理を掴めるのは神だけだ(カント)
こういった、認識と概念的な本当の姿のズレについての問題だ。
厳密には少し違うがオンラインゲームを例にかみ砕いてみよう。
昨今では沢山のオンラインゲームがある。エーペックスでもLoLでもフォートナイトでも荒野行動でもいい。
どのゲームでもプレイヤー達は画面を通じてゲーム内世界を認識し、自分の操作するキャラクターを用いて世界に干渉する。そしてそれは他のプレイヤーと共有された世界であり、複数の人間が全く同じ世界を観測しているといえるだろう。
じゃあそのゲーム内の世界が実際に存在するのかといえば勿論誰もがノーというだろう。あくまでゲームサーバー内で電子情報によって想像された架空の部隊であり、質量の伴わないデータに過ぎない。
これとほぼ同じことが現実世界で言えるのではないかというのがこの話だ。人間は五感を通じて世界を認識しているつもりであるが、本当にこの世界は存在しているのか、見ている物はデータではない保証があるのか。ご存じの方は映画「マトリックス」のような状況でないと言い切れるのか。真理、イデアがゲームの電子情報のように存在するのではないのか。
そんな問題に多くの哲学者が取り組んできたが、注目すべきなのはどの論も暗黙の了解として真理、本当の姿、実際の形、そういうものの存在を前提としていて、それが何なのかを探る思考だったということだろう。
因みに科学はこの問題を解決はしていない。科学的分析も人間の主観的経験則を定量的に表す工夫を超えないので、やはり真理を見出すには情報量が足りないのである。
善と悪
いきなり大層なワードが出てきたが、実はこれがキーワードなのである。
「人殺し」「盗み」「人助け」「勤労」
この四つのワードをそれぞれ、善と悪どちらに属するか考えて欲しい。
まぁ普通は左二つが悪で、右二つが善と考えるだろう。
では何故左二つが悪で右二つが善と考えたのか考えてみて欲しい。
この時常識的に考えてというのは無しだ。神が死んだ先の世界をどう生きるかの話なのだから。
そしてその答えが出る前に次の四つの善悪を考えてみて欲しい。
「悪の親玉の暗殺」「金持ちから盗み困窮者に配る義賊的行為」
「犯罪組織への資金的援助」「自身の体を壊すほどのハードワーク」
見てわかる通り、先に出たワードに事情を付け加えて「本当は良くないけど否定できない」「感覚的には良くないけど何とも言えない」そんな微妙なワードにしたものだ。
そして世の中にはこういう複雑な事情が絡まって善悪二元論で語れないことが沢山あれば、立場によって善悪が逆転することも数多ある。
そういう判断に迷った時にニーチェの時代であれば聖書という分かりやすい答えがあった。だって聖書にこう書いてあるからといえば誰にも批難出来ない、そんな強力な後ろ盾があった。
今の現代だと聖書ほどしっかりしていないが、常識的に考えるというのが最も無難かもしれない。賢い人ならそれぞれの与える影響を数値化して、論理的に優劣をつけるかもしれない。
だがもし聖書や常識という後ろ盾が消えてしまえば、(論理的根拠の場合は切り捨てた数字の重さを無視できなくなってしまえば)、その善悪を何を基準にして考えればいいのだろうか。
力への意思
真理と善悪について考えてもらったうえで、ようやく「力への意思」がどういったものかを表そう。
超人思想がまだ腑に落ちていないので多分に自己解釈も含まれているが許して欲しい。
「人はどう頑張っても五感と思考を通した歪んだ形でしか世界を認識できない。
そして最も大事なのは超人を目指し続けること。つまり自分自身が善く在ろうと行動し、思考し続けることだ。
であれば真理がどんな姿かは関係無いし、自らが思い描く姿に近づくために無関係な事柄はその時点で存在しないも同然と言える。
そして絶対的真理を無いものとするならば、善悪すら自らにとって有益か有害かで決めていいのだ。」
このように、言ってしまえば究極の自己中心的思考法である。
だがここで思い出して欲しい。この力への意思は神が死んだ後の話だ。即ち拠り所となる確たる基準点が無い世界で、どう考え生きていくかの問題だ。
放り出された宇宙空間で天地も無く目的地も見失った時、何を起点に考えるのか。それは自分自身に他ならない。あらゆる判断基準が意味喪失した後に、最後まで残っているのは自分自身の肉体が、精神が欲する欲求に他ならないのだ。
超人思想
そしてその目標地点としてニーチェが設定したのが「超人」である。
先にも述べたようにイマイチ私自身が要領を得ていないので、参考文献からの引用になるが、
とのことらしい。この超人思想に関しては私は完全に自己解釈で、
自らが善いと感じたものを善いと定義し、自ら思い描いた理想を絶えず自己体現している人間
だと受け取っている。なので力への意思もそれに沿った表現にはなっている。
実はこれ、前編なのよね
さて、ここまでしっかり読んでくださった方は多分まだ腑に落ちていない思いを抱えてらっしゃると思う。
というのも実は「神は死んだ、ニヒリズム」はニーチェ哲学の入り口だし、「力への意思と超人思想」は出口というか所謂結論みたいな部分なのである。
つまりまだ、「何故『最も大事なことは超人を目指し続けること』なのか」がすっ飛ばされて解説されていないのだ。
ということで、後編ではその間を埋める解説を、ニーチェとキリスト教、私自身と常識の戦いを通して書いていこうと思う。
参考文献
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