投資を哲学の視点から考えてみる

 円安から日銀の利上げがあったり、なかったりあったり、日経平均株価が乱高下したり、大統領選や解散総選挙があったり、中東情勢を筆頭とした世界情勢があったり。
 色々と騒がしい世の中で、遅ればせながら昨今の経済情勢を調べた。
 調べたと言ってもせいぜい数時間解説系の動画を見ただけなので付け焼刃も甚だしく、具体的な所は勘違いだらけなのだろうが、大まかな所は理解出来た(気がする)。

 今の今まで調べてこなかったのは、月初は毎月食うに困る様な俺自身の財布事情から縁遠かったというのもあるが、一番は「投資」という言葉が嫌いだからだ。わざわざ調べなくても経済的に不調で苦境だという結論は変わらないと考えていたからでもある。
 今回改めて調べてみて、やはり思ったことを書き留めておこうと思う。

 初めに断っておくが、基本的に所謂一般的な所で使われる「投資」という行為に対してネガティブな論調を述べていく。
 ただ、別にそれをしている人たちを否定しているわけではない。嫌いなだけだ。趣味が合わないと言った方が語弊が無い。
 実際これを読んだ諸兄も俺に嫌われたところでどうってことないだろうし、俺自身も自分と違う考えを持つ人がいることの重要性も知っているので特に口を出す気はない。
 つまり、個人的な趣味趣向の羅列、という風に受け取って欲しい。


 ここ数年で、やれ資産形成だ、新NISAだ、等と訳知り顔で語る大人達が増えてきた。別にそれ自体は悪く無いいや、むしろ歓迎すべきことだと本心から思う。考えなしに銀行に貯金するよりかは余程経済や社会に対して関心を持つようになるからだ。
 ただ、俺が嫌いなのは、「投資」という行為を「自分の貯金を増やす為の行為」として行っていることだ。
 「投資」というのは資(リソース)を投げるという言葉だ。投げるということは即ち、手放すということだ。手放すということは自分の手元から無くなるということだ。設備投資などが分かりやすいだろう。設備に資金を投じる事で一時的に資金が減る(資産として計上はされるだろうが)。その変わり長期的には投じた以上の価値を創造する。減価償却という言葉であっていただろうか。
 設備の資産価値にしろ、株券にしろ、何万「相当」の価値はあれど、それ自体に価値は無い。価値としての本質は投資対象に委ねられており、その使い方は対象次第。即ち価値の譲渡自体は当然発生しているのだ。
 それをさも自身の貯蔵する価値の総量自体は目減りしておらず、それどころか漠然と増えていくものだと捉えている欺瞞が嫌いだ。
 実質的には同じでも、本質的には違う。
 ではその本質とは何か。

 お金とは何か。
 様々な視点から様々な表現が出来るが、少なくとも「代替するもの」という点は揺るがないだろう。
 ならば何を代替しているのか。
 今回は哲学的な視点から「影響力を代替している」と表現する。
 ダム工事を行いたい。その目的達成のために必要な資材や人材を集めるだけの影響力を代替するのが巨額の資金というわけだ。個々人の思惑がある中で、自分の願いの実現に協力してもらうだけの影響力を代替している、という視点だ。
 「お金は墓場に持っていけない」なんて言うが、要するにお金は使わなければ価値を発揮しないのである。勿論使わずとも持っているだけで心理的安全性に繋がったりはするだろう。それは選択肢が増えるという意味で個人的な範疇で役に立っていると言えなくも無いが、それだけでは世界は何も変わらない。
 俺にとって、お金というのは手段でしかない。様々な物の代わりになる最も汎用的な手段であり、手段には目的つきものだ。
 一言で言えば、「使う目的もなく増やしてどうすんねん」であり、「使わなかったらただの数字の変化やろ」だ。
 そう言うとこういう反論が来るだろう。
「いや、老後の資金を溜めてるんだから老後に使うよ」
 と。
 突き詰めて言えばそれが気に入らないという話だ。
 俺は生き恥を晒して長生きするくらいならさっさと死にたい。
 有り体に言えば太く短く生きたい。
 趣味嗜好であると先に述べた理由はここにある。

 「生きてるだけで丸儲け」という言葉が俺には受け入れがたい。
 俺にとって基本的に生きるというのは総じて言うなら辛い、マイナスの連続であるし、それを価値あるプラスにするためには相応の価値を生み出さなければならない。
 現状殆ど価値を生み出さず他人に生かされてる身分で何を言うかと突っ込まれそうだが、それでもそれが偽らざる根本だ。
 一般的には生きるということは楽しい事だと、プラスだと言われているが、それは気付かない振りをしてマイナスを他人に押し付けて良い所取りしてるからだろ、という妬みがある。
 人は特に理由もなく生まれる。生まれてきた理由を望まれて、例えば家を継ぐことを望まれて生まれるのは、それは人の生ではなく道具としての生だ。あくまで理由なく目的なく人は生まれ、その生の中で自分でその人生の価値を定義していくのが人間のあるべき姿と考える。
 いずれ死する生物としての宿命があるが故に、刹那的な快楽、刺激に然程の価値は無い。ただ一人の人間として後の世に、人という種の為に何を成し遺すのか、支え継ぐのか。それによって人の人生の意味や価値は後付けされるものだと思う。
 そう考える俺にとっては、「投資」や「資産形成」というのは歯に衣着せず言うなら唾棄すべきものなのだ。
 投資するというのは、応援することだ。株価が上がるか下がるかより、その会社が何を成すのか、どんな未来を目指しているかを気にして、それに賛成の意を示す投票として投資があるのだと思う。勿論そのやり方に不満があれば口を出すのは影響力を行使した者の当然の権利であるし、逆説的に株券も持たない外野が経営方針に口出しするのは筋が通らない話だ。
 そうやって会社の掲げるビジョンに向かって二人三脚で歩んでいき、その結果大きな評価を得れば、つまり株価が上がればそれはとても嬉しい事だ。
 投げるというのはそういうことだ。例え口出しが出来たとしても、実際そのお金を、影響力をどういう風に使うのかは投資対象に委ねられている。我慢ならなくて袂を分かつことになることも、つまり売ることになることもあるだろうが。
 投資信託とかいうセット売りで、なるべく損をしない投資とか個人的には意味が分からない。買ったお金でどう世界に干渉したいの?と聞きたくなる。
 長々と言ったが、具体的なことを言うと
・投資するというなら共感した会社の応援のために投資しようよ
・その後の株価の数字に一喜一憂するのはどうなの。目的達成の障害となる程の評判の上下を表す指標としてならわかるけど
・投資した後に大きく株価が下がったのなら、それは経営に対する影響力を行使しなかった自分の失態或いは力不足だよね。損って表現は違うくない?

 ということである。
 おそらくこういうスタンスこそが投資家としての本来のスタンスだろうし、投機家との違いだろう。
 言うまでも無いが、本来の投資家の人達に関しては尊敬している。俺などより余程広く深い知識を基に世の中の行く末を考えているのだろうから。
 一方で俺より余程経済に詳しい人は五万といるだろうが、そういうビジョンの無いまま始めた人の方が俄かじゃね、と思ってしまう。
 まぁ需要があるからそういう商売が増えるんだろうし、日本人は自分で考えたがらないから需要が増えるんだろうが。

 出来れば投資を「溜める」のではなく「使う」意識で考えてくれる人が増えてくれることを祈る。
 一円も投資したことない奴が何言っても戯言に過ぎないとしても。


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